(左から)大熊ワタル、巣山隆樹、園原 潤

伝説のライブスペース、吉祥寺マイナーで1980年5月31日よりライブ活動を始めた園原潤、巣山隆樹、神田昭彦の3人によるポストパンク/ノーウェーブバンド、マングースの右足。彼らの貴重なライブ録音が、アルバム『マングースの逆襲』として2024年にリリースされた。さらに園原と巣山を中心にしたユニット、トリスタン・ディスコ(TRISTAN DISCO)のライブレコーディングやデモ音源も編集され、アルバム『Relative Motion -Dance with Tristan Tzara-』にまとめられた。

その園原、巣山と大熊ワタル(シカラムータなど)が約40年ぶりに再会、今回の鼎談が実現した。大熊は1979年から吉祥寺マイナーにてバンド絶対零度などで音楽活動を始め、自らの即興ユニット闇射のメンバーだった広瀬隆雄と共にマングースの右足に関わり、後にトリスタン・ディスコへ参加するなど、2人と関係が深い。ここでは、1980年9月に閉店する吉祥寺マイナーとその周辺、そしてその後に設立された知る人ぞ知るレーベル、キッチン・レコードのことまでに話が及んだ。


 

前衛音楽家の巣窟、吉祥寺マイナーの思い出

――マングースの右足『マングースの逆襲』とトリスタン・ディスコ『Relative Motion -Dance with Tristan Tzara-』がリリースされたことを記念して、お三方にお集まりいただきました。

大熊ワタル「まずは吉祥寺マイナーの話から。ピアニストの佐藤隆史さんが1978年くらいから始めた店で、最初は小綺麗なジャズ喫茶だったらしいけど、僕が知った1979年の秋頃にはアバンギャルドの有象無象の巣窟になっていた。常連が好き勝手に部室みたいにしていったらしい。内装を剥がして、コンクリが剥き出しで……」

巣山隆樹「(店内は)何もないイメージしかなかった」

大熊「最初は噂で知って、パンクや訳の分からないバンドがやる場所って他になかったからどんなところ?と興味津々で。いきなり入るのは怖かったから(笑)、出口で様子を見てたら、黒ずくめでサングラスを掛けた怪しい人がよろめきながら降りてきて。それが白石民夫さん(笑)。

当時、灰野敬二さんはすでに伝説的な存在で、他に工藤冬里とかアバンギャルド系の人がマイナーにはわんさか出入りしてた。フォーク系とか普通のバンドも出てはいたけど」

※編集部注 灰野敬二のバンド、不失者の初期のメンバーで、TACOなどにも参加したアルトサックス奏者。後に米ニューヨークへ移住

園原潤「田中トシとかね。パフォーマンスがヤバかった」

※編集部注 ジャパン・フルクサスなどに参加したパフォーマンスアーテイスト。後にブラジルのサンパウロへ移住

大熊「田中トシはネオダダをパンクにした感じの美術系の人で、チクロン・B・ガスってパフォーマンスグループをやってて。山崎春美のTACOにも出入りしてたね」

園原「魚がいる液体が入った器の中から出てきて、〈くっせー〉とかやってたね(笑)」

大熊「ピナコテカ・レコードのLP『愛欲人民十時劇場』のオマケが乾燥させた人糞だったけど、それをやったのが田中トシ。会ってみると生真面目な人なんだけど。

で、ちょうど僕が絶対零度を始めたばかりでライブ会場を探してたら、白石さんが面白がってくれてマイナーに出してくれるようになったんだ。1980年の前半は、月に2、3回は出てた」

※編集部注 ピナコテカ・レコードは佐藤隆史のレーベル。『愛欲人民十時劇場』は、吉祥寺マイナーにおける同名イベントシリーズ(夜10時以降に安い料金で出演するパフォーマーを募った企画)のライブ音源を中心に収録した1980年のコンピレーションアルバム