伝説のライブスペース、吉祥寺マイナーで1980年5月31日よりライブ活動を始めた園原潤、巣山隆樹、神田昭彦の3人によるポストパンク/ノーウェーブバンド、マングースの右足。彼らの貴重なライブ録音が、アルバム『マングースの逆襲』として2024年にリリースされた。さらに園原と巣山を中心にしたユニット、トリスタン・ディスコ(TRISTAN DISCO)のライブレコーディングやデモ音源も編集され、アルバム『Relative Motion -Dance with Tristan Tzara-』にまとめられた。
その園原、巣山と大熊ワタル(シカラムータなど)が約40年ぶりに再会、今回の鼎談が実現した。大熊は1979年から吉祥寺マイナーにてバンド絶対零度などで音楽活動を始め、自らの即興ユニット闇射のメンバーだった広瀬隆雄と共にマングースの右足に関わり、後にトリスタン・ディスコへ参加するなど、2人と関係が深い。ここでは、1980年9月に閉店する吉祥寺マイナーとその周辺、そしてその後に設立された知る人ぞ知るレーベル、キッチン・レコードのことまでに話が及んだ。

前衛音楽家の巣窟、吉祥寺マイナーの思い出
――マングースの右足『マングースの逆襲』とトリスタン・ディスコ『Relative Motion -Dance with Tristan Tzara-』がリリースされたことを記念して、お三方にお集まりいただきました。
大熊ワタル「まずは吉祥寺マイナーの話から。ピアニストの佐藤隆史さんが1978年くらいから始めた店で、最初は小綺麗なジャズ喫茶だったらしいけど、僕が知った1979年の秋頃にはアバンギャルドの有象無象の巣窟になっていた。常連が好き勝手に部室みたいにしていったらしい。内装を剥がして、コンクリが剥き出しで……」
巣山隆樹「(店内は)何もないイメージしかなかった」
大熊「最初は噂で知って、パンクや訳の分からないバンドがやる場所って他になかったからどんなところ?と興味津々で。いきなり入るのは怖かったから(笑)、出口で様子を見てたら、黒ずくめでサングラスを掛けた怪しい人がよろめきながら降りてきて。それが白石民夫さん※(笑)。
当時、灰野敬二さんはすでに伝説的な存在で、他に工藤冬里とかアバンギャルド系の人がマイナーにはわんさか出入りしてた。フォーク系とか普通のバンドも出てはいたけど」
園原潤「田中トシ※とかね。パフォーマンスがヤバかった」
大熊「田中トシはネオダダをパンクにした感じの美術系の人で、チクロン・B・ガスってパフォーマンスグループをやってて。山崎春美のTACOにも出入りしてたね」
園原「魚がいる液体が入った器の中から出てきて、〈くっせー〉とかやってたね(笑)」
大熊「ピナコテカ・レコードのLP『愛欲人民十時劇場』※のオマケが乾燥させた人糞だったけど、それをやったのが田中トシ。会ってみると生真面目な人なんだけど。
で、ちょうど僕が絶対零度を始めたばかりでライブ会場を探してたら、白石さんが面白がってくれてマイナーに出してくれるようになったんだ。1980年の前半は、月に2、3回は出てた」

海賊艇KにYLEM、80年代初頭の東京アングラシーン
大熊「この頃よく一緒にいたのが広瀬(隆雄)。幼馴染だったんだけど、東京で再会して」
園原「(マングースの右足の)ボーカルの?」
大熊「そう。マイナーに入り浸ってた頃〈現場がヤバくなってるから見に来い〉って誘ったの」
園原「僕らより先だね。もう海賊艇K※と絡んでた?」
大熊「それは知らないけど、彼は仕掛け人タイプというか、〈アイツとコイツを組み合わせよう〉とかいって動いてた。マングースにも広瀬から誘われたんだよ。新しいことをやってるバンドがあるからって」
園原「ライブの後に〈良かった〉と声を掛けてくれたのが最初だったな。その後、電話をくれて〈参加したい〉と言ってきたんだよね。でもドラムは天才・巣山がいるし、センスの良いベーシストもいるから空きがなくて、僕がギターに専念することにして広瀬がボーカルになった」
大熊「彼がいた期間は短かったよね」
園原「ライブをやったのも3回くらいかな」
大熊「新宿ロフトのライブは印象的でよく覚えてる」
園原「あの時は革パンツにあえてゴム草履を履いて。巣山なんて女の格好をしてた」
巣山「スカートを履いたんだったかな?」
大熊「園原はエフェクターを並べて、ギターを弾きながらいろいろいじってたよね。今じゃ珍しくないけど、面白いなと思った」
園原「この頃使ってたのはコルグのシンセ。大熊君はヤマハのシンセと合わせて音を作ってたね。海賊艇と繋がったのは広瀬。海賊艇の印刷屋の森(美来)兄弟と渡辺マリさんを紹介してくれた」
大熊「海賊艇は『都市通信』などを作った後、実家が倒産して夜逃げしたんだよね」
園原「マリさんの実家が浅草の有名なパン屋でね」
大熊「(チラシを見ながら、『マングースの逆襲』に収録された)5月31日のライブも海賊艇のイベントだったんだ。その後、YLEM※のオムニバスアルバム『沫』にマングースの曲が1曲入ったよね」
園原「あれ(“ネックレス”)は、YLEMの上田(雅寛)君と絡むようになって〈マングースも入れてよ〉と言ったら、〈いいよ、かっこいいのを入れてよ〉って軽いノリで収録された。上田君は、どっちかと言うと詩の人だったね」
大熊「現代音楽家の佐野(清彦)さんが気に入ってくれたんだっけ?」
巣山「『遊』※で対談もしたね。俺に興味を持ってくれて〈何か一緒にやらないか〉と言われたんだけど、それっきりだった」

EP-4佐藤薫とのレコーディング
園原「“ネックレス”の頃は、マングースからトリスタン(・ディスコ)へのちょうど変わり目だったのかな? 音は完全にディスコやソウルになってきてるよね」
大熊「YLEMのLPはすぐ入手困難になって長らく幻の音源だったけど、CD化されてたんだね。マングースの曲、いま聴いてみるとかなり面白い」
巣山「音は佐藤薫さん※が録ってくれたんだよ」
園原「ロジックだか、代々木上原とかあの辺のブースがちゃんとあるスタジオでね」
大熊「録音の時のことは覚えてる?」
巣山「ドラムをタイトにタイトに!って言われたのはすごく覚えてる(笑)」
園原「普段だったらもっとファンキーにやるところをディスコ調にしてね」
巣山「リズムが当時流行ってた〈ドッツードッツー〉みたいな感じで、スネアも深い音にして」
――その場で佐藤さんが指示を出したんですか?
園原「そう。それに対して足したり、〈これはやりたくない〉と言ったり。あの曲は〈ダダンダダンダンダダン〉から始まってるじゃん。あれは、俺の地元の中津川のお祭りのリズムを使ってるんだよね。〈ダダダダダダン わっしょい~ ダダダダダダンダ〉って俺が叩いてみせたの」
巣山「それを佐藤さんも気に入ったみたいで」
園原「ただディスコで始まるんじゃ面白くないしね」

野々村文宏らYLEM周辺の人々
大熊「他に思い出すことはある?」
園原「YLEMにいた音楽系の人で、滅多に表に出てこないけど大森(智明)君って人がいたの。YLEMはパーフェクト・マザーとかのカセットをたくさん出してたじゃない。彼がそれをミックスしてて、俺たちの音もダブ処理とかをしてくれた。あと、YLEMで有名になったのが野々村(文宏)君※」
大熊「マイナーにもよくいて、当時〈天才少年プログラマー〉と言われてたね。上田さんとはどういう風に出会ったの?」
園原「やっぱりYLEM。YLEMのイベントに来てた、後で仲良くなる白石(隆之)※がいて、彼は当時高校生だったけど『BGM』を出して。白石が佐藤薫と仲良かったりとか、変な繋がりがいっぱいあった」

マングースの右足 結成秘話
大熊「マングースはどういう風になくなっちゃったわけ?」
巣山「なくなってはいない。自然消滅だね」
園原「そもそも俺は、高校の頃は生ギターで(吉田)拓郎の“祭りのあと”とかをやってたの。2年生になって〈まだ音楽をやりたいな〉と思ってた時、田舎だから先輩がやってたのはベンチャーズばっかだった。それでジミヘンとかをやりたいと思ってたら、(レッド・)ツェッペリンとかも出て来た時代で。
だから〈バンドをやるならツェッペリンだな〉と思って、学校で〈バンドやる奴いない?〉と声を掛けたら、同じクラスの神田(昭彦)がジャズ好きだったから〈ベースをやってくれ〉と誘ったの。そしたら、すごくセンスが良いんだよ。で、ドラムがいないなと困ってたら、軽音楽部にうまい奴がいたから〈手伝ってよ〉と誘ったら、〈俺はいろいろやることがあって、後輩でドラムを始めたのがいるから聞いてみれば〉って言うんだよ。その後輩が巣山」
巣山「高校で初めてドラムセットに出会ったんだよね」
園原「当時は見よう見まねで叩いてる感じだった。〈適当でいいからやってみてよ〉と言ったら、いきなり『太陽にほえろ!』(のテーマ)を叩いてみせたから〈こいつで決まり〉となった」
大熊「マングース誕生秘話だね」
園原「俺は高校卒業後、音楽をやりながら別のこともしたいし、親に言い訳もしなきゃならないから東京デザイナー学院という専門学校へ入って、本郷に親戚がいたから下宿して。
当時、俺の中で流行ってたのがザ・スペシャルズやザ・ポリス。しかも、ザ・ポリスはスリーピースでしょ。良いネタだと思って、コピーするのは苦手だったけどコードを合わせて曲を作ってた。で、巣山に〈卒業したら東京に来いよ〉と言って」
巣山「もともと東京には来たかったから、うまくマッチングできたんだよね」

マングースの右足からトリスタン・ディスコへの移行期
園原「それで当時、俺はとにかくギターで歌や歌詞を作ってた」
巣山「ドラムもベースもこの曲に合わせてくれって言われて。でも、スタジオにもそんなに入れないから……」
園原「俺と神田で合わせたことはあるけど、巣山は俺たちが吹き込んだカセットを聴いただけの状態で、リハーサルもしないうちにライブをブッキングしちゃったの(笑)」
巣山「だから、吉祥寺マイナーでのライブがデビューってこと」
園原「そしたら、思ったより良くできたんだよね」
巣山「良かったと言ってくれた人が何人かいて」
園原「良い感じじゃんってことで、柏のクレイジーホースとかへの出演も決めちゃって。そのイベントも海賊艇Kが関係あったと思う」
大熊「海賊艇は(1980年)5~7月頃に倒産事件で逃げちゃったから、その辺でなくなった。ロフトのライブは夏だっけ?」
園原「秋頃かな? でも、メンバーチェンジはしてたはず。ロフトの時は巣山と俺と、もう3人いて」
巣山「ということは、だいぶ仕上がってる頃のマングースだ」
園原「そうそう。トリスタンに変わりかけの頃だね」
大熊「園原たちは当時〈ロックやパンクのシーンに嫌気が差してきた〉って言ってたよね」
巣山「オルタネイティブって言葉が流行ったりしてたね」
園原「当時は、それこそディス・ヒートとかヤバいバンドがどんどん出始めたじゃん。いわゆる『No New York』的な」
大熊「ノーウェーブ的なバンドね」
園原「そういう音楽を聴きながら〈俺らはこっちの方だ〉と思って。あと、純粋にファンクも好きだったから。関西弁でファンクをやってたソー・バッド・レビューとか、その辺もホントかっこよくて」
大熊「スライ(&ザ・ファミリー・ストーン)とかが大好きだったよね。その辺の影響を滲ませてるバンドってあまりいなかったから、マングースが気になったんだ」

絶対零度など大熊ワタルの音楽活動
――大熊さんの音楽活動はソロから始まり、その後に絶対零度を始めたんでしたっけ?
大熊「いや、絶対零度が最初。絶対零度は上智大学内のバンドとして始まって。言い出しっぺの上級生が裸のラリーズや灰野さんが好きで、自分たちなりに新しいことをやろうとしてた」

Photo by 地引雄一

――ルシフェリン・ルシフェラーゼ(1980年秋の1回限りのプロジェクト)はその後ですか?
大熊「少し後。1979年末に絶対零度を始めてすぐ、広瀬が僕に〈シンセとか変な音だけのユニットもやったら?〉と言い出して、1980年に広瀬と僕が始めたのが闇射。絶対零度はドラムとベースがいる普通の編成だけど、変なところだけ抽出した訳の分からないことをやりたくて。闇射は1980年の春頃から何度かライブやりつつ、1年くらいで終わりましたね。
ルシフェリンは、1980年9月にマイナーの〈十時劇場〉で朗読の女の子と一度だけやったプロジェクトでした」
――そして、1980年の秋に吉祥寺マイナーは閉店します。
大熊「1980年の9月末。だから、ルシフェリンのライブは終了間際だった」
園原「マングースもギリギリだ」
巣山「マイナーにはそんなに出てないね」
大熊「絶対零度は半年の間にマイナーで10回以上やったよ。最初の頃はホント入り浸ってて、毎週のように出てた時期もあった」

Photo by 地引雄一
INUらが登場した関西パンクの熱気
大熊「でもマイナーは狭いし、同じような人ばかりがいたから、だんだんロフトとかで町田(町蔵/康)君のバンドなんかと対バンするようになった。INUがブレイクする直前だね」
巣山「関西からすごいバンドが来るっていってね」
園原「関西のバンドはどれもかっこよかった」
――アーント・サリーとか。
園原「変身キリンとか」
大熊「ドッキリ・レコードのツアーがあったよね。(それとは別に)だててんりゅうのことも覚えてる」
園原「東京のパンク系バンドをかっこいいと思ったことはほとんどなかったけど、INUは〈絶対に本物じゃん、ずば抜けてる〉と思った」

ダブや編集など宅録で没頭した音楽実験
大熊「マングースに話を戻すと、〈バンドバンド〉した感じじゃないユニットになりつつあったの?」
園原「その頃に4トラ(ック)やオープンリールのレコーダーを導入して、ダブをやってみたりしてた」
巣山「ライブを何回かやるごとにメンバーが変わってたのかな?」
大熊「実演メインというより、スタジオで録った素材を宅録的にどんどん加工してた?」
園原「そう。そっちに興味を持ったんだよね」
巣山「ライブでもエフェクターをくっつけてダブ処理したり、エコーを掛けたり。ドラムにエフェクトを掛けるのが好きで、よくディレイで飛ばしてたね」
大熊「あの頃はリー・ペリーやOn-Uサウンド辺りの作品を聴きまくってたよね」
園原「ダブにはまっちゃってね。思い出したけど、林業高校で木工の時間にボンドの量が多すぎてイってしまったことがあって。カラフルな光が目の中に飛び込んでくるんですよ。ダブを作る時にそれを思い出してた(笑)」
大熊「PIL(パブリック・イメージ・リミテッド)とかも聴いてた?」
園原「関係あるね。PILに関してすごいと思ったのは……」
巣山「重厚なベースとバスドラだね」
園原「あとハイハット」
大熊「そういうサウンドプロデュース的な感覚で聴いてたね」
園原「要するに、音そのものが好きになった。〈良い曲〉っていうより〈良いサウンド〉の方にいっちゃった」
大熊「〈プロフェッサー園原〉みたいな感じだね(笑)」

ヴァリエテからメトロファルスまで、キッチン・レコードの記憶
園原「サウンドプロデュースというと、キッチン・レコードにいたバンドのヴァリエテはすごく才能があると思ってた※。2代目ボーカルの有近真澄さんは星野哲郎さんという有名な作詞家の息子で。
その有近さんとヴァリエテを組んでた、日向隆一と名乗ってた山田(多理)さんがその後いなくなってしまって、それが一番名残惜しい。音のセンスがめちゃくちゃ良かったから」
大熊「何をやってた人?」
園原「ギターも弾くけど、どっちかと言うと映画音楽的な作曲が得意で。俺と共通してたのは、大江健三郎が大好きだったこと。文学好きでありながら、(フェデリコ・)フェリーニの映画音楽のニノ・ロータとかああいうのも好きだった。ピチカート・ファイヴが出てきた時に〈良いな〉と思ったけど、その前に山田さんたちを知っちゃってたんだよね。センスの良い奴らだったな」
大熊「その辺の人たちとは何か一緒にしたの?」
園原「俺はヴァリエテがいた最初の頃のキッチン・レコードと関係してて、アイデアマンみたいな感じで関わってた。メトロファルス※のプロデュース的なこともしたな。ボーカルの伊藤ヨタロウの家にスタジオがあって。メトロファルスはバカボン(鈴木)とか、テクニシャンがいっぱいいたバンドだったね。
俺はいろんなところに顔を出して、いい加減なことを言っても割と聞いてもらったりしてた。音を作りに行ってたね」
――ルナパーク・アンサンブル※も?
大熊「録音やミキシング、ダブ処理も一緒にやってもらったりしたね。ルナパークって初期はメンバーが流動的だったので、よく園原にベースとかを弾いてもらったりしてた」
園原「法政大学の学館ホールの企画にルナパークが出た時、『メトロポリス』って無声映画を掛けながらベースを弾いてた。結構関わってるね」
大熊「マイナー/ピナコテカの佐藤さんが〈大熊君のソロ作を出そうよ〉と言ってくれて、デモテープを作った時も園原に手伝ってもらった。
そういえば、園原の下宿が本郷の東大の近くの長屋だったよね。傾きかけた部屋でいろいろ音を鳴らしてたな。その頃、僕がポルノ映画(『タクシー・ドライバー 白昼の陶酔』鴨田好史監督、1983年、新東宝)の音楽を頼まれた時、予算が3万円しか出なくて、録音スタジオを使うどころじゃなかった(笑)。で、〈園原スタジオ〉で録音してたら、監督が〈見学に行きたい〉と言い出したからごまかして。あそこに来られたらヤバかった(笑)」
園原「ただのベニヤ張りの長屋だから、スタジオじゃないもんな(笑)」

〈音の部品〉を組み立てていたトリスタン・ディスコ
大熊「トリスタン・ディスコはどんなきっかけで始まったの?」
園原「例のYLEMの録音がきっかけかね? あの頃からやってることがトリスタンだもんな」
巣山「マングースのレコードを作った後から曲も変わってリズム重視になっていって、〈じゃあ、トリスタン・ディスコで〉って感じになったんじゃなかったかな?」
大熊「ネーミングはダダとかシュールレアリズムとかの影響?」
園原「トリスタン・ツァラが好きだったから。その辺は上田君が噛んでたかもしれない」
巣山「YLEMが活動をやめることになり音源をキッチンに渡すことになって、バンドをトリスタン・ディスコにしたんだ」
園原「(キッチンのラインナップは)ヴァリエテやメトロファルス、トリスタン・ディスコ。あとMLDで、それは白石隆之(と園原)のユニット」
大熊「トリスタンのベースの田島(敦夫)君は、僕も友達だった。彼は池袋のアール・ヴィヴァン※でバイトしてたね」
園原「YLEMで『はたご屋』ってカセットテープを作ってたのが彼で、〈ジャズも好きだからベースを弾くんだ〉と言うからスタジオに来るようになって、トリスタンのライブにも参加するようになった」
巣山「ベースを弾いてもらったらめっちゃ合って、すごく気持ちよかった。スラップ奏法なんて初めて見たし」
園原「そういう良い瞬間の音の部品があれば、曲ができちゃった。それが気持ちよかったね」
巣山「音楽が頭の中にあったから、ここに〈チチー〉を入れてよ、とかそんな感じだったね」
園原「ツツッツッツツ……ここで止まって、ブレイクを入れて、ここから曲をやって、とか言ってね」
巣山「楽譜じゃなくてね。日本の芸能じゃないけど、言葉で伝えて曲を作ってくことが多かった」
園原「大熊にもコードを伝えるより〈ここは弾いちゃだめだよ〉とか言ってね。好き勝手にやってもらった」
大熊「そういうのしかできなかったし(笑)。でも、1曲だけピアノでコードを淡々と弾いてるのがあって……」
巣山「ガラスなどすぐ忘れ~♪」
大熊「“キャタピラ”か! あれは良い曲だね」
園原「あれは俺が考えたコードかも。ドラムのタメもかっこいいね」
巣山「今ならもっとできるって思いがあって、俺は悔いが残るんだけどね(笑)」
園原「ドラムといえば、ロフトで絶対零度とライブした時、俺たちが夢中になったのが絶対零度のドラム(木村真哉)。巣山に〈ああいうのやって〉と言ったら、〈すぐには無理〉なんて返されて。(キング・)クリムゾンの『Red』みたいな音だったもんな」
大熊「木村のドラムは今聴いてもかっこいいよね。高校の頃からジョン・ボーナムのドラムをひたすら練習してたみたい」
園原「大熊は木村のドラムを評価してなかったの?」
大熊「評価はしてたんだけど、当時僕はニューウェーブ小僧だったから、もっと新しい感じが欲しかった。木村は70年代のロックがベースにあるから、ノーウェーブ的な感覚も欲しかったんだよね」
園原「今でも覚えてるのは、トリスタンをやってた頃に広瀬から教えてもらった、マガジンが好きだったこと。『The Correct Use Of Soap』(1980年)が大好きで、すぐ後にそのアルバムを中心にしたライブ盤(『Play』、1980年)を出して、〈この辺の曲は良いな〉と言ったら、大熊が珍しく〈俺、このピアノ大嫌いなんだ〉って言って」
大熊「記憶にございません(笑)。広瀬とよく〈マガジンは良い〉って言ってたね」
園原「マガジンはスライの曲もやってたね」
大熊「“Thank You (Falettinme Be Mice Elf Agin)”のカバーね」
園原「ライブでもやってたし。俺らもトリスタンで“Thank You”をやるみたいな……」
巣山「そのイメージはあったね」

家庭に仕事に、トリスタン・ディスコ解散の裏話
大熊「トリスタンは盛り上がっていくかと思ってたけど、あっという間に消えちゃった。2年で終わったの?」
園原「巣山のドラムは俺が録り溜めてたから、それを使って勝手にダブを作って、それでアルバムができるようにしてた。それを使ったのが(次のユニットの)スパナ。あと、他にも適当に作ったな……」
大熊「トリスタンはどういう風に終わったの? 上田さんが北海道に帰ることになったから?」
園原「それでトリスタンの名前で最後にキッチンから作品(『Demonstration Takes』1982年)を出して、並行して白石と俺はMLDをやるようになった」
――なので、トリスタンは1983年頃になるとスパナ、つまりよりポップなユニットになったんですよね。
巣山「自然消滅じゃないけど、急にフェイドアウトしちゃって」
園原「ほら、巣山がいよいよ結婚しようと思ってた時期で、あまりにも俺に呼び出されて休みをつぶされちゃうから奥さんに怒られたんだよ」
巣山「うちの奥さんの裏工作があったらしい。直接行ったこともあったんでしょ?」
園原「俺にクレームが入っちゃった。食えるわけじゃないのに、あんたらいつまでも何をやってるのって(笑)。……ってことは終わりじゃん。それを本人には言いにくいし、〈分かった、巣山は自由にするから〉と奥さんに言って。それも意識して最後にドラムを録り溜めてくれたのかも。
そういうわけでトリスタンは消えた。俺も〈いい加減働きなさい〉と言われて仕事を始めたから、しばらく音楽を離れたんじゃないかな」
大熊「ところで田島はどうしてるかな?」
園原「芦川聡さん※を継いでアール・ヴィヴァンの店長になったのは知ってる」
大熊「最初にトリスタンのリハをやった時、彼はチョッパーが好きで音数が多すぎて、〈もうちょっと減らしてくれ、じゃないと俺が弾く隙間ないじゃん(笑)〉と話したのを覚えてる」
園原「〈この曲がいい〉とか〈このコードがどう〉とかは話さないけど、互いの演奏の噛み合わせやアレンジの話はすごくしてた。リズムパターンや音の雰囲気とか、その辺について一番言い合える仲だった。
サックスの山崎さんが入ってきたのは覚えてる?」
大熊「あまり覚えてないな」
園原「大塚のスタジオペンタ1号店に練習で通ってたのは覚えてるでしょ? あそこでトリスタンのリハをやってた時、隣の部屋でサックスを吹いてた奴が声を掛けてきたんだよ。〈おたくら、かっこいい音出してるね。ファンク?〉って。当時、マイルス(・デイヴィス)みたいにトランペットにディレイをかけてみたいと思ってたところにサックス野郎が来たから、〈うちらのサウンドでサックスを吹いてみる気ない?〉と聞いたら、〈やってみたいですね〉と言ってくれて」
大熊「改めてCDを聴いたらちゃんと吹けてるし、曲によっては(トラン)ペットも入ってるよね」
園原「ライブの時? じゃあ、トランペットも連れて来たんだ」
巣山「だから、うるさい(笑)」
園原「それをダブで誤魔化してる。この曲は吹くなって言っても吹いてたりするから」
巣山「みんな〈やりたいやりたい〉って感じだったからね。もうちょっと練れば面白くなっただろうけど」
園原「あと面白かったのは、大熊がセッティングしてくれたのか知らないけど、横須賀のドブ板だっけ……?」
大熊「ああ、潰れたディスコで1ヵ月やったイベントね」
園原「それに出演した時は吉祥寺のライブをやった後で、こなれててかっこよかった」
巣山「めちゃくちゃファンキーな感じでやったね」
園原「上田君の出鱈目ボーカルも手慣れてきててね」
大熊「そのライブは覚えてないけど、同じ頃そこに解散直前の絶対零度でも出た。多分そこのイベントをやってる人たちがいろんなバンドをチェックして、声を掛けてたんだと思う」
園原「思い出したけど、マングースに広瀬が歌っていた“すでに”って曲があったんだよね。〈すーでーにっ〉と歌い始めて、いきなりドラムが始まる。あれは(町田の)つくし野スタジオってところで録った」
巣山「徹夜でやったね」
園原「夜中は安いからって。かわいそうなのが、巣山は当時スネア1個で練習してたんだよな(笑)」
巣山「ドラムセットがなかったから(笑)」
園原「合宿所でハイハットとスネア1個だけで表現して、ツェッペリンを3人でやってた。
それをカセットで録ったのを友達のお兄ちゃんに聴かせたら〈おまえらめちゃくちゃかっこいいじゃん、自分たちのオリジナルをやれよ〉と言ってくれたんだよね。で、田舎に帰った時、弟の方に〈東京でバンドやってる〉と言ったら〈兄ちゃんは今東京に行ってる〉と言うから、その兄貴に連絡して来てもらって録音した。本格的な録音だから、ハイハットとかもきれいに録ってくれてる」
大熊「マルチトラックで録ったの?」
園原「確かそう。8トラかな。ちゃんとハイハットやベードラだけにマイクを立てて録るなんて初めてだった」

園原潤の特異な言語感覚
大熊「ところで、歌詞の話をしなかったね。歌詞というか、言葉は園原が書いてたの?」
園原「トリスタンは上田君が全部タイトルを決めてた。詩も彼の言葉で、英語は(海賊艇Kの)マリさん。マングースの歌詞は全部自分が書いた」
大熊「その後、園原は詩集を出したよね」
園原「忘れてた! よく言ってくれた。藤富保男さんという詩人と仲良くなってね。北園克衛を研究してると言ってて、『時間』という雑誌で書いたりしてた」
大熊「詩はマングースをやってた頃から好きだったの?」
園原「一番好きなのは稲垣足穂。それもあって上田君と話が合ったんだよね。
詩を書き始めたのは、ある展覧会で北園克衛を紹介してる人がいて、それが藤富さんだった。〈北園克衛が好きなんです〉と言ったら、〈僕も詩をやってる〉という話になり、面白い人だなと思って。詩集を買って読んだら、ダジャレみたいなのも使ったふざけたユーモア系もやってて良かったんだ。あと好きだったのは、E・E・カミングス。俳句みたいな短い詩がかっこいいと思って。そういうのもあって、藤富保男に惚れ込んだ。年上だけど平気で飲みに誘って仲良くなったよ」
大熊「だいぶ後の話だよね」
巣山「バンドで活動しなくなった頃だね」
園原「その時に藤富さんが〈詩を出しただけで終わっちゃうから、冊子でいいから何か作りなさい〉と言ってくれて、詩集を出すことになった」
大熊「白石君とは、その後付き合いはあったの?」
園原「いっとき彼がDJをやってた時に見に行ったことはあった」
――1997年のMUSICA NOVA※は?
園原「あれはMLDとかの関係。俺が持ってたマルチトラックを見て、白石もやり始めて。その時はテープで音のやりとりをしてた。しばらくやってた時に白石がDJをやり始めて、〈作品もちゃんと出したいから、また一緒にやろう〉と声をかけてもらってやったのがMUSICA NOVA」

伝説のEP-4〈5・21〉ライブの思い出
大熊「マングースとトリスタンについて他に何か思い出はある?」
園原「吉祥寺マイナーでやってた時に見てたのはその周りの奴らばっかで、それ以外で言及してくれた人はいなかったな。大熊と広瀬と知り合ったことで充分満足してたから」
――他に参加したメンバーのことを教えてください。
大熊「根本姉妹の妹の智雅子さんがまだ高校生だった頃、一時期マングースでサックスを吹いてた。ベースも弾いてたかな」
園原「マングースに参加する前は『ロッキング・オン』に投稿してたタイプの人だったね」
大熊「その後、日本画家になったんだね。姉の美奈子さんは、すきすきスウィッチにいたよね」
巣山「その友達の滋田みかよがトリスタンでベースだった」
――滋田さんは一色進さんのバンド、タイツのメンバーでしたね。
園原「滋田が加わり、トリスタンは再びライブを始めたんです。第2期トリスタンというか、トリスタン・ディスコ・ネオと自分で言ってるんだけど」
巣山「キッチンのイベントの時、ライブが終わった後にバカボンさんが声をかけてくれたな。ベースがかっこいいねって」
大熊「(渋谷)エッグマンだったっけ?」
園原「そう。キッチン・レコードのショーケースイベント(1983年9月に開催された〈KITCHEN RECORDS REVIEW〉)で、大熊がキーボード、他のメンバーは巣山と俺と大熊と滋田だった」
大熊「みかよちゃんは田島と比べても遜色ないよね」
巣山「あのベースは全然アリだと思う」
園原「その後、ヴァリエテの影響もあったと思うけど、もっとポップなものがやりたくなって、それがスパナになった。その頃、渋谷のTAKE OFF 7かな、ピチカート・ファイヴと一緒にライブをやったことがあって、高浪(慶太郎)さんに誉められたのは覚えてる。
あと、1983年5月にEP-4の例の〈5・21〉のライブが渋谷パルコであったね※(この時のリハーサルテイクを『Relative Motion -Dance with Tristan Tzara-』の最後に収録)。あの時は白石、滋田、巣山の4人でやったな。そのメンツで六本木のインクスティックでもやりましたが、白石はこれが最後でした。彼はライブよりスタジオワークが好きだったからね」
――本日はありがとうございました。
RELEASE INFORMATION
リリース日:2024年3月20日(水)
品番:FJSP497
仕様:CD
価格:2,805円(税込)
TRACKLIST
1. フットワーク
2. RADIO BOUND
3. 子供倶楽部
4. NO FEEL FINE
5. 吸血蝙蝠449
6. 最後のパレード
7. やだ!ノーサンキュー
8. フットワーク・モア
9. キリクチ
10. 形式的な午後
11. ナイト・スキップ
12. PACK F**K ME
13. もっと吸血蝙蝠
14. すでに
15. キリクチはそのままに
M1-7 1980年5月 吉祥寺マイナー
M8, 9, 11 1980年 吉祥寺マイナー
M10, 12, 13, 15 1980年9月 柏クレイジーホース
M14 1980年 スタジオ・ライブ
編集・マスタリング:George Mori
デザイン:ダダオ
解説:園原潤インタビュー
ソノハラジュン G, Vo
カンダアキヒコ B, Sax
スヤマタカキ Ds
ヒロセタカオ Vo (M8, 9, 11)
リリース日:2024年3月20日(水)
品番:FJSP498
仕様:CD
価格:2,805円(税込)
TRACKLIST
1. introduction
2. social dance
3. afternoon composition
4. relative motion
5. cut end-kirikuchi
6. mode variation
7. surplus life
8. DADA-dance with Tristan Tzara
9. be on the decrease -減少する空間-
10. relative motion 93
11. caterpillar
12. silent science
13. nuance
14. mis hearing
15. be on the decrease -減少する星-
M01-08 1981年12月 ライブ 吉祥寺with
M09-11 1983年9月 ライブ 渋谷エッグマン
M12-15 1983年5月 スタジオセッション
編集・マスタリング:George Mori
デザイン:ダダオ
解説:園原潤インタビュー
■TRISTAN DISCO1981
ソノハラジュン:Guitar
スヤマタカキ:Drums
タジマアツオ:Bass
オオクマワタル:Keyboard
ウエダマサヒロ:Vocal
ヤマザキ:Sax
■TRISTAN DISCO 1983
ソノハラジュン:Guitar, Vocal
スヤマタカキ:Drums
シゲタミカヨ:Bass
オオクマワタル:Keyboard (M9-11)
シライシタカユキ:Keyboard, Guitar (M12-15)
PROFILE: マングースの右足
長野の高校で一緒だった園原潤、巣山隆樹、神田昭彦の3人が上京し揃ったのを機に1980年春からバンド活動を開始。同年6月から吉祥寺マイナーなどに出演するようになり、ボーカルに広瀬隆雄(松岡正剛「遊」の界隈におり、大熊ワタルの舞踏・即興ユニット闇射のメンバー)を加え、ロックバンドスタイルで注目を集めるようになる。8月の広瀬脱退後よりロックの枠を超えた表現そのもののオリジナル性を追求するように進化。11月、神田が脱退し、その冬に根本智雅子(すきすきスウィッチの根本美奈子の妹)をサックスとベースに迎えてからは自主ライブ企画を始め、他流セッションも積極的に行う。ちょうどこの時期、現代音楽家の佐野清彦に認められ、上田雅寛主宰レーベル、YLEMと接触を持ち、1981年夏にコンピレーションアルバム『沫』へ演奏が収められた。しかし、ニューウェーブ、オルタナティブ、アバンギャルドなどの言葉が日常化していくことを嫌い、1981年5月、渋谷・屋根裏にて園原、巣山の2人でのライブを最後に活動を休止、トリスタン・ディスコへ発展していく。
PROFILE: TRISTAN DISCO
1980年に園原潤と巣山隆樹を中心にスタートしたマングースの右足は、吉祥寺マイナーなどでのライブ活動からその界隈に多くの知己を得て、1981年にトリスタン・ディスコへと発展する。園原はスタジオワークに没頭、そこでダブやフィードバックを取り入れたエレクトロニクス作品も創作するようになる。日本エレクトロ黎明期のコンピレーションアルバム『沫』に参加した白石隆之(BGM)が加わりトリスタン・ディスコ・ネオとも言える、さらなる進化をした。また園原は白石主導のMLDに参加し、その関係はMUSICA NOVA(1997年)まで続くことに。本作は、この2つの時期のライブとスタジオセッションを収めたものである。



