1985年にイギリスで始まった、ターンテーブリストたちによる世界大会〈DMC World DJ Championships〉(以下〈DMC〉)。今年、初開催から40周年を迎えた同大会の決勝が、2025年10月11日(土)と12日(日)に東京・渋谷で開催される。
当初はヒップホップDJたちを中心に始まった〈DMC〉。レコード2枚とミキサーを使って新たなリズムを構築したり、レコードをこすって音を鳴らしたり、そこに身体を使って派手な動きを織り込むなど、DJならではのビートとグルーヴをキープし繰り広げられるパフォーマンスは機材の進化に伴い、今やDJたちのスキルも驚くべきレベルに達している。
〈DMC〉40年目の記念大会がここ日本で初めて開催されるとのことで、2002年にアジア人として初のワールドチャンピオンに輝いたDJ KENTAROに話を聞いた。
DJ KENTAROが世界一になるまで
――KENTAROさんが〈DMC〉に興味を持ったのはいつ頃でしたか?
「15歳ぐらいだと思います。たまたまレコード屋さんで〈DMC〉のフライヤーを見たのがきっかけです。それで自分も出てみたいと思って、16歳のときに挑戦してみたんです」
――それまでDJはやっていたんですか?
「13歳のときにTechnicsのターンテーブルを2台買って、ヒップホップのレコード集めから始めて、家で練習していました。その頃からレコードは2枚買うものだと思っていたので、ジャケット買いで2枚同じものを買っていたりしましたね。当時はDJのハウツービデオみたいなものがあったので、それを見ながら見よう見真似で独学でやっていた感じです。
それと地元の仙台でDJをやっている先輩に教わったりしていました。GAGLEの3人に出会ってからはDJ Mu-Rさんにレコードを教わったり、DJ Mitsu the Beatsさんからはスクラッチを教えてもらったり、隣の部屋ではHUNGERさんが漫画本を読んでいたりしたので休憩のときはそっちへ行ったりしていました(笑)」
――〈DMC〉でワールドチャンピオンになるまでの歩みも伺いたいです。
「16歳で最初にバトルに出た頃は、腕試しというか、仙台ではまあまあ有名だったので、ちょっとやってみるかみたいな軽い気持ちで出場したんですよ。だけど応募して出てみたら全然ダメで。リハーサルの時点で周りのレベルが高くて、そのときは予選落ちしました。17歳のときに再挑戦したんですけど、そのときもダメでした。
18歳のとき、3度目の挑戦で東北大会で準優勝したんです。予選1位で通過して、司会がKREVAさんだったこともあってすごい盛り上がっていました。結局決勝で負けてしまったんですけど、その年からVestax主催の東日本大会で優勝したり、〈I.T.F(International Turntablist Federation)〉という大会で準優勝したり結果が残せるようになりました。
それで19歳のときに〈DMC〉のジャパンファイナルで初めて日本一になって、世界大会で3位になったんですね。そこで自信がついて、翌年の2002年はもう優勝する気満々でした(笑)。絶対優勝するぞぐらいの勢いで臨んで、日本大会で2連覇して、ロンドンでの世界大会では予選1位で通過して、本戦では大トリでプレイしてパーフェクトスコアで優勝しました」
――優勝された2002年以前のバトルDJたちは、90年代の流れを汲んだヒップホップ色の濃い曲を使うことが多かったと思うんですが、そこにKENTAROさんが新しい風を吹き込んだイメージがあります。ご自身的にはどう思いますか?
「当時〈No Wall Between the Music(音楽に壁はない)〉をコンセプトとして掲げていて、ヒップホップ、レゲエ、ハウス、ロックなどいろいろなジャンルを6分間のルーティーンに詰め込むことをしていたんですけど、確かに当時はそういうスタイルのDJはあまりいなかったですね。ヒップホップを主流としたスタイルが多かったので、外から見て自分のスタイルは斬新に映ったのかなと思います。確かに僕が優勝して以降、〈DMC〉でヒップホップ以外のジャンルもかかるようになったことは自分自身でも感じています」