
新津章夫がYMOのギタリストだった世界線
――1978年のアルバム『I/o』中の曲で、また、今回のCD第1集にもそのデモが収められた“光のオルゴール”は、元々、バロック以降の12音階の音楽は4度の転調を3回すると元のキーに戻るというロジックの遊びから始まった、とライナーにあります。この曲が、なぜ〈オルゴール風〉というイメージに変化したのか、そのきっかけについてお伺いできますか?
「“光のオルゴール”は、最初のスタイルはドラムやベースも入ったディキシーランドジャズ風のノーテンキな曲調でした。曲名もなく“No. 15”とマスターテープには書かれていました。倍速ギターの録音技術の確立には成功したものの、ではそれをどのように音楽に活かしたらいいか、というアイディアは当初は兄になかったんです。
ひとつのきっかけは、70年代に大ブームを起こした〈イージーリスニング〉というジャンル。代表的なところでは、ポール・モーリアやレイモン・ルフェーブルといったフランスのオーケストラが奏でる主に映画音楽などの人畜無害な音楽を研究し始めたんです。
個性の塊である兄の音楽とは対極のようで、方法論としていかに兄の音楽が聴き手から距離を置かれず、警戒感を持たれず、音楽を聴いてもらえるか? そう考えた時にオルゴールと結びついたわけですが、楽曲番号“No. 15”が“光のオルゴール”となったのは、『I/o』のプロデューサー、三浦光紀さん(ベルウッド・レコードの設立者)、担当ディレクターである伊藤洋一さん(YMOのマネージャーを経て、本作の発売元であるブリッジの代表。同社の元になった音楽事務所オレンジ・パラドックスは『I/o』の収録曲名に因む)、スーパーバイザーだった音楽ライターの岩田由記夫さんたちのアイディアが大きかったです」
――聞いた話だと、章夫さんはYMOのギタリストとして最初に候補に挙がったらしいですね?
「はい、伊藤さんに〈なぜYMOのギターに新津章夫を選ばなかったのか?〉と訊いたことがあるのですが、〈新津は孤高の人だからね〉との返事でした。岩田さんによると、三浦さんが兄に〈今度、細野(晴臣)さんがYMOというグループを作ろうとしているが、そのギタリストにならないか?〉と誘ったところ、兄から断ったそうです。
新津章夫がYMOのギタリストだった世界線は興味がありますよね。伊藤さんによると、YMOはフロント2人の強烈な個性のぶつかり合いを(高橋)幸宏さんがまとめていたとのことで、そこに新津章夫なんて入ったら(笑)、ですよね。ただ、伊藤さんが坂本(龍一)さんに兄の曲を聴かせたところ、坂本さんは興味を持ったそうで、インクスティック(六本木にあったライブハウス)のライブを見に来ていたことがあります」

――“コズミック・トレイン”や“未来永劫”は、ドイツ旅行での経験が原点になったとのことです。ドイツで体験した風景や音が、お兄様のクリエイティビティにどのように影響を与えたのか、具体的なお話をお聞かせください。
「一番大きかったものは、教会の鐘の音や日曜日に漏れ聞こえてくる讃美歌などだと思います。また、駅のインフォメーションコールや電話のベルの音など、生活にある様々な音がすべて日本のものとは違ったことが大きいと思います。
今ではYouTube、Instagramなど、海外のちょっとした音、町の喧騒などがいくらでもリアルに手に入りますが、70年代は、たとえば『兼高かおる世界の旅』なんてテレビの旅行番組が大人気で、海外の情報は、それこそお金を出さないと手に入らない時代でしたから。自分の目で見て、耳で聴いて、歩いてみて発見すること、すべてが新鮮だったのだと思います。
今回のCDに収録した“ハイデルベルグ”という曲は、まさにハイデルベルクという町を歩いて、どこからともなく聞こえてきた鐘の音がイントロになっています」
――2ndアルバム『Pet SteP』(1982年)のタイトル曲は“手のひらを太陽に”のメロディを元にされているとのことですが、童謡や駅の案内のベルなど、日常の中に隠れている音から着想を得ることが多かったのはなぜだとお考えですか?
「兄は子供の頃から図鑑を見るのが好きで、我が家には『玉川こども百科』という子供用に編集された百科事典がありまして、一人暮らしを始めた時にはその事典を全巻持って出たくらいです。それは玉川学園が編集したもので、文字通り100巻ありまして、兄は特に乗り物や生き物の図鑑をよく見ていました。そういう子供の好奇心を満たしてくれる視覚情報が音に変換されたものが、兄の音楽の一部になっています。
そういった図鑑、事典から得た知識の影響なのか、兄はエッシャーのだまし絵、クラインの壺やメビウスの輪、シンメトリーとパラドックス、そして、アンチクライマックス、回文、円周率、視覚や論理、言葉など、あらゆるものの中に、平気な顔をして混じり込んでいる座敷童子のような〈不思議〉が大好きでした。本人は自分の音楽を〈まやかし音楽〉と呼んでいましたが、これは異常なまでの照れ屋であるがゆえの照れ隠し的表現に他なりません」