
その場のノリで生まれた日本初のラップ歌謡(?)“ミスター・チョンボ”
――制作には、どれくらいの時間がかかったのですか。
「一晩でつくりました」
――え! ひ、一晩ですか!? アルバムをたったの一晩で? 本当ですか。
「本当です。一晩、徹夜してこしらえたんです。私と可朝やん、八田さん、サックス奏者の古谷充(ふるやたかし)さん、古谷さんが率いていた〈コンコード〉のメンバーなど、梅田の小さなスタジオに集まって録音したんです。コンコードのなかには現在90代で現役ジャズピアニストとしてギネスブックにも記録されている大塚善章(おおつかぜんしょう)さんもいました※。真夏で、冷房が効かなくてね。室内がとても暑かったのを憶えています」
――そうそうたる和ジャズの面々で制作していたのですね。
「なぜかアルバムにお名前がクレジットされてないのですが、演奏したのは、すごい人ばかりですよ。他にも曲をつくっている最中に〈ここに三味線がいるな〉〈ここは尺八やな〉となると、お師匠さんたちを呼びだして、その場で演奏してもらってね。夜中でも来てくれました」
――そんなアドリブ的にレコーディングしていたのですか。すごいですね。
「もう即興。アドリブですよ。ほとんど何も決めずにスタジオに入りましたから。可朝やんや八田さんと相談しながら僕がその場で詞を書いて、すぐにメロディをつけて演奏して、可朝やんが歌ってね。録りなおしなんてしなかったな。どの曲も一発OK。そんなノリでしたね」
――なんと! 曲をその場でつくっていたのですか。ファーストテイクどころの騒ぎじゃないです。
「その場のノリですよ。僕がわりと気に入ってる収録曲に“ミスター・チョンボ(接待麻雀実況中継)”という作品があります。“ミスター・チョンボ”は、もともと麻雀用語をつなげた歌詞を私がある程度まで書いていてね。〈さぁ、メロディをどうしようか〉と。すると古谷さんやったかな、大塚さんやったかな、どっちか忘れてしもうたんやけど〈喋りのような歌でやりまへんか〉とアイデアをくださったんです」
――現在で言うところのラップをするって、その場で決めたのですか。でも1976年ならば、〈喋りのような歌〉はまだ一般的ではない時代ですよね。
「そうなんです。〈海の向こうで喋るように歌う、メロディがないような音楽があるんです。日本ではまだ知らない人が多いですから、このアルバムでやりましょ。可朝さんに思うままに喋ってもらって、あとでバックコーラスつけますから〉と、こう言うんです。それで半信半疑なままやってみたら、これがおもろかった。可朝やんも私も麻雀が好きやから、スタジオでも盛り上がりましたね」
――“ミスター・チョンボ”は〈本邦初のラップ歌謡ではないか〉という説がある奇特な曲で、クラブで回している若者もいます。
「今の若者に共感してもらえる部分もあるんでしょうね。他にも全編浪曲だけではおもろないからと、可朝やんが次々とアイデアを出しましてね。明治時代の日露戦争期に活躍した演歌師の草分けである添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)の“ラッパ節”“のんき節”や、第二次世界大戦の戦時下に親しまれた“ツーレロ節”、民謡の“江州音頭”など、浪曲の間にどんどん挟んでいった。結果的にバラエティに富んだアルバムになりました」
――可朝さんが作曲した作品もありますね。
「“ひとり酒”ですね。可朝やんが〈センセ、こんなメロディがおまんねんけど、なんぞ詞を乗せてくれまへんか〉と言うてきてね。可朝やんにメロディを口ずさんでもらって、それを聴いて私が詞を書いたんです。〈こんな短いメロディでは2行しか歌詞がないで〉と、2人でメロディと詞を増やしながらつくりました。とても切ないメロディでね。よい曲になりましたね。私のお気に入りです」
――お話をうかがっていますと、改めて可朝さんの多才さ、知識の豊富さに驚かされます。
「とにかく引き出しの数が多い人でしたね。都都逸(どどいつ)や河内音頭、古い流行歌など、よう知ってました。調べてるんやろね。それに座布団まわしのような曲芸も実はうまいんです。いったいいつ練習しているのか。誰に教わっているのか。ぜんぜんわからない。シャイなのか、そういう頑張っている部分は他人には見せなかったですね」
――そして、可朝さんのアイデアを瞬時に受け容れて、その場で作品にしてしまう池田さんやミュージシャンたちの対応力がすごいです。アルバム全体を貫く、やけっぱちとも言える怒涛の勢い、グルーヴ感の理由がよくわかりました。
「〈池田さん、この曲ちょっと短いわ〉〈ほな、今から3番と4番をこしらえるから、待っててや〉と言うて、その場でささっと書いてね。ええ加減なアルバムですが、全員の息がピタッと合うてました。せやなかったら一晩ではつくれなかったでしょうね」