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センター平手友梨奈が担っていた役割

さらに言えば、2010年代はポップがまだ〈作品〉として読まれうる時代であった。楽曲、MV、振付、衣装、センターの身体、そのすべてがひとつの物語として流通していた。スターは単なる人気者ではなく、共同体の違和感や時代のノイズを引き受ける器でなければならなかった。いま振り返れば、2010年代とは、批評家の伏見瞬が言うところの〈ストーリーテリングの時代〉だったのだろう。人々は現実そのものよりも、現実を圧縮し象徴へと変換する強い身体を求めていた。ひとりのスターが社会の矛盾や不安、抑圧や欲望を引き受け、それを物語として可視化する。その構図を頼りにしていた時代だった。

その意味で、欅坂46というプロジェクトは、時代の複数の大きな物語と共鳴していたと言えるかもしれない。「ストレンジャー・シングス」におけるイレブンは、単なる主人公ではない。実験体であり、世界のノイズを引き受ける媒介だった。そして、言うまでもなく平手友梨奈もまた、ただのセンターではなかった。歌う少女である以上に、時代の症状を託される媒体となっていった。“サイレントマジョリティー”は、その最初の症例だったのだろう。共同体の違和感や閉塞感、怒りや反抗といった輪郭の曖昧な情念が、ひとりの身体へと集約されていく。振付に顕著なように、ひとりの身体が引き受けたものを、メンバー全体で、プロジェクト全体で、ひとつの大きな塊として表現し、東京ドームを覆うまでにその器を拡大させていった。欅坂46とは、そうした危うい均衡のうえに成立したグループだった。

そして、そのような構造は必然的に限界を孕む。ひとつの身体に負荷を集中させるシステムは、圧倒的な強度を生む一方で、いずれ臨界点にも達するからだ。「アベンジャーズ/エンドゲーム」においてサノスが象徴しているのは、単なる悪ではなく、物語そのもののルールを書き換えてしまう力の中心である。彼の存在によって世界は不可逆的に変化し、もはや以前の状態へは戻れなくなる。欅坂46において平手友梨奈が担っていた役割も、それに近いものだった。彼女はシングルごとに、怒りも祈りも絶望も希望も、その曲の持つ情動を流し込まれ、それを憑依させることを求められた。そうして、実際に器として引き受けられた負荷はやがて臨界点を突破し、物語を前進させる力から、物語を断ち切る力へと反転してしまった。

 

アイドルという器がどれほど危うく、壊れやすいものかを可視化した

欅坂46の軌跡は、平手友梨奈の脱退という決定的な転換点、指パッチンによって、急速に終わりを迎えることとなった。だが重要なのは、その消失のあとに何が始まったのかという点だ。「アベンジャーズ/エンドゲーム」において、世界はサノスの消失によって回復したのではなく、トニー・スタークという中心の自己犠牲によって、新たな均衡がかろうじて成立した。すなわち、ひとつの中心が消えたあとも、別のかたちで秩序は再編されうるということだ。欅坂46もまた、2020年のラストライブでその名を閉じたあと、櫻坂46として再出発した。巨大な中心を失ったあとにも、共同体は別のかたちを探し、別の秩序を編み直すことができる。それは破局ではなく再編であり、終わりはそのまま次の物語の条件になる。

2026年のいま、そうした帰結を知っているからこそ、“サイレントマジョリティー”が変えたものの大きさはいっそう鮮明に見えてくる。第一に、この曲はアイドルのデビュー曲が社会に対する〈態度〉を歌うことによっても成立しうると証明した。第二に、その態度を受け止める責任を聴き手の側に発生させた。つまり、ただの好き嫌いを超えて、この曲は何を歌っているのか、自分はどちら側に立っているのかという解釈の負荷を観客に引き受けさせた。第三に、アイドルという存在を、社会の緊張や矛盾を引き受ける器にまで押し上げ、その器がどれほど危うく、壊れやすいものかを可視化した。だからこそ、欅坂46は社会現象となったのだと思う。そして、欅坂46が残したのは熱狂だけではない。熱狂を伴う祝祭が、いかにして圧力へと反転し、その重みが中心の身体へと降り積もっていくのか。そのプロセスそのものを、彼女たちは時代の記録として残したのである。その模様は映画「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」にも刻まれている。

高橋栄樹, 欅坂46 『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』 ソニー(2021)