欅坂46の“サイレントマジョリティー”がリリースされてから本日で10年を迎えた。 秋元康が作詞、バグベアが作曲した同曲は〈アイドルグループのデビュー曲〉でありながら、それまでのアイドルの概念を大きく変える曲となった。あれから10年、当時14歳の平手友梨奈をセンターに据えた“サイレントマジョリティー”を私はこーへが批評する。 *Mikiki編集部
沈黙する多数派に向け放たれた蜂起の歌
桜咲く4月は門出の季節。新しい制服、新しい教室、新しい駅のホーム。人は何かを始めるたび、自分もまた新しく生まれ変われるのではないかと少しだけ期待をしてしまう。
2016年4月6日、乃木坂46の姉妹グループとして大きな期待を背負った欅坂46は、デビューシングル“サイレントマジョリティー”を世に放った。AKB48グループのように、坂道シリーズもまた拡張し、どのような物語を生み出していくのか。欅坂46は結成当初から、その未来を占う最初の一手として注目されていた。そんな中で打ち鳴らされたのは、乃木坂46の清楚さや上品さとも異なる、若者が抱えていた違和感や圧をそのまま前面に押し出した、あまりにも切実な、沈黙する多数派に向けて放たれた蜂起の歌だった。
もちろん、乃木坂46にも“制服のマネキン”のように大人や社会に対する違和感や反抗を内包した楽曲は存在していた。だがそれはあくまでグループの一側面に留まり、全体の方向性を規定するものではなかった。それに対して“サイレントマジョリティー”は、乾いたギターのカッティングの反復と無機質なビート、そして何より平手友梨奈の歌い出しの声の低さによって、この世界の不条理をイントロの時点で引き受け、そのまま楽曲全体のトーンを決定づけてしまった。それどころか、最初の一声だけで、思春期の若者が抱える社会や大人への反抗と、〈君らしく自由に生きろ〉というメッセージを含めた、欅坂46というグループの全体像を作り上げてしまったのだ。〈人があふれた交差点を/どこへ行く?〉という渋谷のスクランブル交差点を思わせる最初の一節は、人の流れに同調して歩く群衆の姿を浮かび上がらせ、沈黙する多数派の情景を一瞬で立ち上げる。そしてその沈黙が、秩序維持の装置として機能していることまでも見抜いていた。
そして、この曲の重要性をさらに際立たせているのは、〈サイレントマジョリティー〉という言葉そのものが、2016年という時代において世界的な政治的含意をあらためて帯びていたことだ。もともとは1969年、リチャード・ニクソンが用いた言葉として知られるが、2016年のアメリカ大統領選では、ドナルド・トランプがラストベルトの疲弊した人々を可視化し、動員するための旗印として再び掲げた。つまりそれは、声なき多数派を単なる受動的な存在ではなく、政治的な力へと変換するための呼びかけだったのである。
2010年代後半、日本においてもSNSがすでに生活のインフラとなり、誰もが発信者になれる時代が到来していた。トランプ当選の過程が示したように、SNSは沈黙していたはずの多数派を可視化し、現実の社会を動かし得る力を持ち始めていた。この言葉は、そんな時代の気分そのものを象徴していたのである。そうした時代に、この言葉をアイドルソングのフォーマットへと持ち込み、社会への問題提起として響かせたことによって、“サイレントマジョリティー”は安全に消費される存在としてのアイドル像を明らかに逸脱していた。
さらに、この時代のSNS環境は、人々に発言の自由を与えると同時に、発言のリスクを極端に可視化する装置でもあった。誰もが声を上げることができるようになった一方で、その声は常に観測され、切り取られ、誤読される。発言は文脈を剥がされ、賛否へと即座に振り分けられ、ときに人格そのものの評価へと接続される。そうした状況のなかで、〈言わないほうが安全だ〉〈空気を読むほうが合理的だ〉という感覚は、むしろ以前よりも強く共有されていった。沈黙とは無関心ではない。それは自己防衛であり、摩擦を回避するための知恵であり、スマホ世代における極めて現実的なサバイブの作法だった。
だからこそ、この曲の強度は単なる反抗の表明以上に〈おまえもそうして黙っているのか〉と、聴き手の側へ問いを返してくるところにある。沈黙を選ぶことは合理的であり、多くの場合において正しい。しかし、その合理性の積み重ねが、結果として世界を何も変えないまま延命させてしまっているのではないか。沈黙をただ糾弾するのではなく、それがいかに秩序の維持に奉仕してしまうのかを聴き手に迫る。その居心地の悪さこそが、“サイレントマジョリティー”の本質だった。
