いつも、なにかにつけて聞こえていたあの久米節

 久米宏がテレビ朝日の報道番組「ニュースステーション」のメインキャスターとして君臨したのは、1985年から2004年にかけて。時代はバブルのスタートと栄華、からその崩壊、その後の低成長と〈どうやら日本はヤバそうだぞ〉という今に続く感触のとば口まで番組は続いた。それまでのニュース番組と違ったわかりやすい語り口、時には権力に対しても批判を口にする自立感は当時画期的で、それを一手に体現したスターが久米宏。また、毎週生放送で、独自の邦楽ランキング上位10曲をカウントダウン形式で発表する音楽バラエティ番組「ザ・ベストテン」の司会を黒柳徹子と務め、生放送ならではのアクシデントを〈これがテレビだ!〉というがごとく、ユーモアと絶妙なフォローで面白さに変えていったのも彼。逝去の報を聞いて、彼が晩年、激変したテレビや大手メディアについて本当に何を思っていたのか、を、しっかりしたロングインタヴューを読み込んでみたい。思ったのは私だけではないはずだ。

 ご存じの通り、SNSやスマホコンテンツの隆盛、局やタレントのスキャンダルなどもあって、現在はテレビ離れが加速。大手メディアの報道について以前のような絶大な信頼というものは失われ、キャスターの位置づけも変わってきた。炎上という大量無記名のクレームやそれを受けた発信者側の判断という生殺与奪の評価軸が当たり前になってしまっている。

 さて、YouTubeでは、「ニュースステーション」最終回における久米の姿を観ることができる。番組の総括の後に自らが冷蔵庫からビールを取り出しぐーっと飲み干し、ひとりで祝杯を挙げるという一連のシーンは、「本当に感極まっている」という本人の言葉とリアルな様子は、今見てみると感動と言うよりも先に、〈ちょっとやり過ぎなのでは?〉という心配が先に来てしまう。局が恐れるのは、とにかく炎上。そして炎上からのスポーンサー離れであり、〈最後なんだから、大目に見よう〉という寛容は世の中から消えてしまった。

 かつて、〈たのしくなければテレビじゃない〉という標語を掲げ、女子アナのタレント化やお笑い芸人を多く登用し、エンタメ化に軸足を置いたのが、フジテレビならば、テレビ朝日は報道番組にそのモードを取り入れ、かくして「ニュースステーション」はブレイクした。その方向は、〈難しいことをわかりやすく〉であり、事件の複雑性を時に模型や人形で解説し、時にその状況を映画的な感情喚起ビジュアルで表現する。そう、現在は、アテンション・エコノミー、つまり、感情を揺さぶり、注意を喚起すること=イイネ主体の表現が揺るぎなく社会のモードとなっているのだが、まさにその原型ともいえる。

 その典型的な例は、85年の日航機墜落事故でその犠牲者の数を伝えるのに、その人数分の靴をスタジオに並べたことがあった。〈ええっ? こんなに多くの人が亡くなったのか?〉ということを犠牲者の遺留品を思い起こさせる靴の物量の視覚で物語ったわけで、当時それをオンタイムで見ていた自分の心も大いに動揺した。当時サブキャスターに抜擢されていた小宮悦子も、この場面のインパクトと伝達の強さに立ち会って、テレビ報道という仕事に本腰が入った、という意のことをのちに語っていたという記憶がある。

 

 キャスターの在り方も新機軸を打ち出した。そもそもニュース伝達は、中立性と客観性が求められるのだが、久米宏はその基本は踏まえながらも「私はこう思う」と自らの言葉で視聴者に語りかけ、時には権力者に対して辛辣な批判をも下し、大衆はそれを大いに歓迎して応援するという図式であった。彼の番組中の意見は、多くの視聴者の共感を呼ぶと同時に、たびたび政治的な論争を巻き起こしたものだった。久米宏という一個人のキャラクターは、番組そのものであり、その根底にあるのは、第二次世界大戦後、戦争のない平和な世界の実現を世界中が目指し、民主主義を軸としたグローバルなリベラル思想。報道は権力の暴走にストップをかける重要なファクターだということの強力な自負がまだまだ、大手メディアには存在し、それを個人で体現し続けたのが久米宏だった。

 しかし、この存在感も、ネット社会が確立し、SNSの台頭とシンクロしたようなテレビ離れ、トランプ大統領の再選とその帝国主義っぽい政策実施の前に、非常に旗色が悪くなっているのはご存じのとおり。久米宏の「ニュースステーション」は社会を動かす力を持っていたが、その手法は、テレビが持つ特権的な地位の上に成り立っていたわけで、もうテレビにはそのステイタスはない。

 久米宏はルックスも魅力的だった。スリムな体型をスタイリッシュなスーツに包み、テレビ局の威信を示したマッチョ権力オヤジ系でもなく、その反対の庶民派無頓着ぶりでもなく柔らかで自由、クールで時代とシンクロした着こなしは、彼の意志的なキャスターぶりを見事に補完。その、卓抜なスタイリングはスタイリストである妻の手になるものだという点もポイントのひとつだった。当時はまだまだ、影で目立たず夫を支える糟糠の妻という存在が賞賛されていた時代に、妻も仕事で自己実現し、お互いに尊敬し合うそのパートナーぶりは、当時、希少かつ理想の夫婦像だったのである。

 さて、バブル期といえば、たんに浮ついた欲望まみれの狂騒期だったように思われているが、日本人が個人の自立感や自由とその責任について肯定的で、自分の人生に対して楽観的で余裕があった時代だった。〈みんないっしょで安心安全〉というのは、日本人のモラル感として知られているが、この時代だけは、〈みんなと同じじゃ嫌〉というモードが立ち上がっていたことを忘れてはならない。

 わかりやすい例で言うと、リクルートスーツ。雇用機会均等法前後の女子大生の面接や入社のファッションを見ると、それが今のような紺一色の〈みんな同じ〉ではないことに気がつく。ツィードのブラウンあり、えんじ色のボウタイブラウスだったり。バイト、転職。求人雑誌のとらばーゆやフロムAなどが、脚光を浴び、現在のマイナスイメージとは違い会社や組織に縛られず自由に生きるフリーランスに希望があった時代である。

 自分の生き方を自分で決める、すなわち自立という価値観が最も輝いていた時代、自立に必要不可欠なのは、コミュニケーション。組織や家庭に依存していれば、何も言葉を発しなくても忖度でもって生きていけるが、自分の足で立って生きるには、とにかく人の対話を通じて、自分というものを社会に示さなければならない。久米宏はそんな時代のロールモデル。ちなみに、お笑い芸人が脚光を浴び始めたのもこの時期。〈男は黙って……〉というビール会社のキャッチフレーズがあったが、そんな男性像がアウトになり、〈男はしゃべって、面白くてナンボ〉に変化させた立役者のひとりは久米宏だった。

 久米宏は近年、その活動をYouTubeに移してもいた。自身のチャンネル〈久米*ネット〉を開設し、毎回ちょっと気になった言葉や話題を取り上げ、自由気ままに語るインターネット動画番組として企画されいて、チャンネル登録者数は約4.8万人に達していた。コンセプトに掲げた「多数決よりも少数派。賛成派よりも反対派。小さなアイデアと好奇心を大切に」という言葉は、誰にとっても現在を生き抜く上での指針になるだろう。

 


久米宏(くめ・ひろし)【1944-2026】
1944年生まれ、埼玉出身。1967年、早稲田大学政経学部卒業と同時に、TBSに入社。1979年、同社を退社、フリーに。これまでの出演番組は、日本テレビ「おしゃれ」司会(1980年~1987年)、「久米宏のTVスクランブル」(1982年~1985年)、「久米書店 〜ヨクわかる!話題の一冊〜」(BS日テレ、2014年~2016年)。テレビ朝日「ニュースステーション」メインキャスター(1985年~2004年)、「久米宏のがん戦争」(1983年~)。TBS「ぴったし カン・カン」司会(1975年~1984年)、「ザ・ベストテン」司会(1978年~1985年)など。2026年1月1日、肺がんのため死去。

 


寄稿者プロフィール
湯山玲子(ゆやま・れいこ)

学習院大学法学部卒。著述家、プロデューサー、おしゃべりカルチャーモンスター。著作に「女ひとり寿司」(幻冬舎文庫)、「クラブカルチャー!」(毎日新聞出版局)、「女装する女」(新潮新書)、「四十路越え!」(角川文庫)、上野千鶴子との対談集「快楽上等! 3.11以降の生き方」(幻冬舎)。「文化系女子という生き方」(大和書房)、「男をこじらせる前に」(角川文庫)等。TBS「新・情報7DAYS ニュースキャスター」等に出演。クラシック音楽の新しい聴き方を提案する〈爆クラ〉主宰。ショップチャンネルのファッションブランド〈OJOU〉のデザイナー・プロデューサーとしても活動中。日本大学藝術学部文芸学科非常勤講師。東京家政大学非常勤講師。