JAZZを書き換え続ける哲人
私にとって最も忘れがたい音楽家ヘンリー・スレッギルが、アメリカで最も権威ある賞として誉れ高いピューリッツァ賞を受賞した。驚いた。というより、受賞の報を聴いた瞬間まずは耳を疑った。クラシックではウォルター・ピストンやサミュエル・バーバーのように2度も受賞している作曲家が3人も4人もいるのに、ジャズ分野で選ばれたのは過去、ウィントン・マルサリス(1997年)、故オーネット・コールマン(2007年)の2人しかいない。こうした奇妙な偏りに対してかれこれ半世紀ほど前のことだが、ジャズ界を中心に米国の良心的なジャーナリストたちが「なぜピューリッツァ賞にデューク・エリントンが選ばれないのか」と大きな声を上げたことがあった。そんな中でマイルス・デイヴィスもジョン・コルトレーンもセロニアス・モンクも、マルサリス以前はジャズの巨人が誰1人選ばれていないこの名誉ある賞に、何とヘンリー・スレッギルが『In For A Penny, In For A Pound』(Pi Rec.)というアルバムによって選ばれたというのだ。嬉しさを通り越して、驚いた。「ヘンリー、おめでとう」!
話は41年も前にさかのぼる。41年も経ったのかと思うと頗る感慨深い。瞼に焼き付いているのは、聡明な若さがまぶしいほどに輝いていたヘンリーだ。1944年(2月15日)の生まれだから、現在72歳。初めて会った時の彼は30を過ぎたばかりだった。70を超えたヘンリーなんて想像もできない。いちど1990年だったか、インドのジャズ祭の会場で出会って再会を喜び合ったことがあった。このとき彼は50代半ばだったはずだが、41年前に初めて会ったときとほとんど変わっていなかった。40年間で彼と会ったのはこの一度だけだ。その彼が72歳になった。時の流れは容赦ない。
すべては1975年5月6日に始まった。「すべては」と書いたのには理由がある。
この日、私はトリオ・レコード(当時)の友人とシカゴにいた。リチャード・エイブラムスが1965年5月に創設したAACM(創造的音楽家の進歩ための協会)の10周年記念フェスティヴァルが大々的に催されることになっており、その前年に来日したアート・アンサンブル・オヴ・シカゴのジョセフ・ジャーマンから招待状が送られてきたこともあり、初めてシカゴの土を踏んだのだ。フェスティヴァルの会場はサウスサイドのトランジション・イースト。私はここでジャーマンの紹介で始めてAACM代表のリチャード・エイブラムスと会った。ヘンリー・スレッギルとも言葉を交わしたが、彼がどんなプレーヤーとも知らない状態だった私の挨拶は、後から考えたら冷や汗がでかねないほど通り一遍だった。会場で表立って動いているのはアート・アンサンブル・オヴ・シカゴ(AEC)の面々たち。記者会見場に集まったのは私たち日本人を含めて20人ほどだったが、活発な質疑応答が続き、シカゴの、とりわけAACMの動向が当時ジャズ界から期待と注目が集まっていることに、ただならぬ雰囲気を感じただけでなく、私にとってもエキサイティングな何かが起こりそうな予感が脳裏をかすめたことを今でも鮮明に覚えている。
それというのも、私自身もある覚悟を定めてシカゴに乗りこんでいたからだ。私はこの75年早々、トリオ・レコードの協力を得て自身のレーベル『WHYNOT』を設立し、プロデュース活動に乗り出していた。すでにシカゴへ来る直前、サンフランシスコでジョージ・ケイブルスと彼の初リーダー作となるピアノ・トリオの吹込第1弾を制作する約束を取り交わし、ヴァイブの異才ウォルト・ディッカーソンの復帰第1作を録音する手はずも整えつつあった。かくしてシカゴに滞在中、フェスティヴァルのメイン会場や界隈のライヴハウスでジョセフ・ジャーマンが推薦する新鋭や、名前すら聞いたこともない若いプレーヤーの演奏を熱心に聴いているうちに、レコードに記録したい演奏家が次々に現れだしたのでエキサイトした。たとえば、チコ・フリーマン、ジョージ・ルイスやウォーレス・マクミラン、そしてヘンリー・スレッギルら、だ。中でもルイスとスレッギルには目をみはった。私が日本では恐らく名前さえ知られていない彼らを主人公(リーダー)にした作品を作ろうと思ったのは、現代にいたるジャズの歴史を克服してシカゴ発の新しい創造的な音楽に向かう情熱と意志を、彼らの演奏の中に見出したからだった。1965年にAACMという音楽家の活動組織を立ち上げ、ムハール・リチャード・エイブラムスを先頭に新しい音楽教育を実践してきたすえの大きな実りが、スレッギルやルイス、あるいはかのマイルス・デイヴィスが自己のグループに勧誘したシカゴの伝説的テナー奏者ヴォン・フリーマン(シカゴを離れるのを嫌ってマイルスの誘いを断った話は有名)の愛息チコ・フリーマンらの音楽やプレイに結晶しており、その証拠としての演奏記録を作っておきたかったのだ。かくして9月にシカゴを再訪した私は、ヘンリー・スレッギルとチコ・フリーマンの初リーダー作、及び総帥エイブラムスのソロ・ピアノという3枚のアルバムをつくった。
私がスレッギルと初めて打ち解けた雰囲気で話しあったのは、フェスティバルが始まって2日後の午後のことだった。夫人と連れ立って現れた彼は結成して間もない彼のグループの演奏の素晴らしさをにこやかに、しかし熱心に話したあと、ヴィデオテープを取り出した。この映像でのスレッギルら3人(ベースはフレッド・ホプキンス、ドラムスはスティーヴ・マッコールというシカゴ生まれの名手にして強者。両者とも薄命で、マッコールは1989年に56歳で、ホプキンスは51歳になって間もない1999年1月7日に他界。惜しみても余りある逸材達だった)の演奏を目の当たりにして、私の腹は決まった。この直後にはチコ・フリーマンのデビュー作の吹込も決め、進んで協力を約束してくれたベースのセシル・マクビーを伴ってシカゴを再訪したのは、ちょうど4ヶ月後の9月初旬のことだった。初日の録音後、彼は突然この吹込を機会にグループ名を“AIR”にすると言って驚かせた。言い換えれば、昨日まで名乗っていた“Reflections”から“AIR ”に改名したスレッギルら3人の新たな出発を、この第1作『Air Song』(ホワイノット)が祝福したことになる。
翌1976年、スレッギルらAIRの3人はニューヨークに上京した。76年からの数年間はいわばワイルドな魅力を持つ花々が咲き乱れたロフト・ジャズの全盛期。サム・リヴァースがグリニッチヴィレッジ・NOHO地区のボンド・ストリートに夫人のベアトリスの名をとって開設した〈Studio Rivbea〉が、オーネット・コールマンの〈Artist's House〉と双璧のフリー・ジャズ最後の砦となり、ロフトで活躍するミュージシャンたちの牙城となった。AIRもここで大きな注目を集めることになったが、その間にAIRの第2作を盟友デイヴィッド・ベイカー(2004年7月14日死去)の手で録音した。それが『Air Raid』(ホワイノット)で、グラミー賞にも輝いたベイカーの技法が冴える1作ともなった。私がプロデュースした作品で2枚のリーダー作を吹き込んだミュージシャンは、ヘンリー・スレッギル(AIR)と辛島文雄の2人をおいてない。
当時のスレッギルで忘れられないのは、出演するたびに彼が時には数え切れないほどのさまざまな楽器を用意してステージに現れることだった。アルトはむろん、各種フルートやピッコロ、クラやバスクラ、ソプラノやバリトン・サックス、時にはファゴットなども。ダウンビート誌の批評家投票で、スレッギルがジャズ・グループ(Zooid)、アルト・サックス、フルート、及びコンポーザーでトップとなり、特にPi Recから発表した7作品で最も創造的な作曲家の1人と認められたと知っても私は別に驚かない。『Air Song』と『Air Raid』の全8曲が彼の作曲であり、アルトはむろんフルートやバスクラの名技を何度も見てきた桁外れなマルチリード奏者だからだ。いずれにせよ、音楽家として恐らくは最高の賞の受賞に輝いたヘンリー・スレッギルの今日に、たとえほんの僅かでも寄与できた喜びに、いま私は浸っている。ヘンリー、おめでとう!
ヘンリー・スレッギル(Henry Threadgill)[1944-]
1944年、シカゴ生まれ。作曲家/アルトサックス、フルート奏者。AACMに参加、70年代のロフトジャズムーヴメントを担ったAirのメンバーの1人であり、ユニークな即興演奏のスタイルで注目を集めた。Air以降、Very Very Circus,Zooidといったアンサンブルを組織し、複雑な構造の作品を次から次へと発表する他、ブランドン・ロス、ダフニス・プリエトといったアーティストを育てた。近年は作曲家として様々なアンサンブルから委嘱をうけ、2014年に発表した『In for a Penny, In for a Pound』で今年ピューリッツァ賞を受賞した。
寄稿者プロフィール
悠 雅彦(Yuh Masahiko)
1937年、神奈川県逗子市生。早稲田大学文学部英文科卒。在学時は同大のハイソサエティ・オーケストラ部に属し、卒業後北村英治クィンテットなどで歌手活動。68年に執筆活動に転じ、スイング・ジャーナル誌等へ執筆。75年に自主レーベル「ホワイノット」を設立し、ジョージ・ケイブルス、チコ・フリーマン、辛島文雄らの初リーダー作をプロデュース。朝日新聞のコンサート評を担当。著書に『モダン・ジャズ群像』、『ぼくのジャズ・アメリカ』、『ジャズ~進化・解体・再生の歴史』(以上音楽之友社)、共著に『ジャズCDの名盤』(文芸春秋)がある。