見えないものを見るとき
作家は自分の作品をよく“子供”になぞらえる。5か月を超える会期中、金沢に滞在しながら作品を生み出し続けているのは泉太郎。パフォーマンス、ドローイング、絵画、彫刻などあらゆるメディアを交錯させたインスタレーションを国内外で発表している1976年生まれのアーティストだ。生まれて数ヶ月ではどんな“子供”かまだわからない。だから解説パネルはない。その“子供”という他者を知るには想像するしかない。
まず長期インスタレーションルームには、カラフルなポスターが蛇腹状に展示されている。それらは“映画のポスターになったアート作品”で、書かれているのは作品名、作者名(映画であれば俳優名にも見える)。監督としての泉太郎や所蔵美術館名なども並んでいる。作品写真がないので、言葉から作品を想像してみるしかない。そのとき例えば「Waterfall Line 滝の線」という言葉が指し示すイメージは、観る人それぞれに異なる。作品を知る人は作品の姿を思い浮かべるし、知らない人は新たな「滝の線」を“生み落とす”。脳内あるいは紙の上に念写するように「滝の線」が亡霊のごとく浮かび上がる。壁には映画の番組表。毎日1作品が上映される。
では、シアター空間に行ってみよう。入口ではポップコーンを販売している。ここでは“映画になったアート作品”(亡霊ともいえる)がスクリーンに映し出されている。所蔵美術館で展示されている作品を、開館から閉館まで、泉自身が少し離れて定点カメラで撮影したものだ。作品のとある1日。上映時間は7時間。上映時のサイズはその作品の実物大に合わせている。展示状況のドキュメントというよりは、絵画や彫刻を、映像や映画のルールに合わせた、これもひとつの作品なのである。作品は動かないが、モチーフである滝、あるいは筆の動きなどが見てとれる。あるいは、制作時の身体の動きやその時間経過も含まれているといえる。
ポップコーンが映画の鑑賞体験を演出し、量が減っていけばそれは“時計”のようでもある。食べる速度が人によって異なるように、人の鑑賞の体感時間も異なる。色やテクスチャーがよくわかる実物を見ることと、それがいくらか省略された映像で見ることも体験が異なる。ここまでの一連が《B:「レンズは虎が通るのをはっきりと捉えていたのだ」》という作品だ。
映像のなかでは、作品の前を人が通ったり、声がしたりもする。人に観られるとき作品が機能する=働いているとすれば、待機している時間の方が長い。一方で、作品は人に見られていなくてもそこに「在る」。
そこで今度は泉自身が作品になり、女装して路上に立った。自分が見られる側になった映像作品《D:「夜はくしゃみを我慢した瞬間から始まるの? だとしたらお兄さん、長いくしゃみをしていきませんか」》が、シアター空間の外周に展示されている。作品は“他者”であり、他者を理解するには、他者になってみる=同化してみることだと考えたから。
また、外周の反対側には《古い名前、先客》という映像作品もある。意味としてウナギを見るか、魚としてウナギを見るかは同時にできない。近づいて見ればウナギだとわかり、遠ざかれば文字に見える。So meanとは「いじわる」というスラング、あるいはSが寝転がれば「意味なし」か。枠をはみ出していくウナギもいる。それは、お決まりの思考回路から逸脱しようとする泉自身のようでもあり、作者も思いがけない反応をする鑑賞者のようでもある。「さわっていない頭の部分をつかむようにして、気持ち悪いと思いながら制作し、見たことないものができたときが楽しい。謎やひっかかりがあったほうが、その先に作品の遺伝子がつながるんです」と泉が語るとおり、新作はまだまだ続く。
ところで、インスタレーションルームに流れているのは、映画『ゾンビ(Dawn of the Dead)』でホラーと裏腹にショッピングセンターで流れる楽しげな音楽。自撮りに夢中な鑑賞者へのちょっとした風刺にも見える。言葉とイメージ、映像と現実、自分と他者のギャップ。問題になりそうなそこに豊かさがある。いまいちど、見えないものを見ようとするとき、美術作品は生きている。
EXHIBITION INFORMATION
泉太郎 突然の子供
○開催中~3/25(日)まで
○10:00~18:00(金・土曜日は20:00まで)
○会場:金沢21世紀美術館/レクチャーホール/シアター21/長期インスタレーションルーム