奇妙で不穏な日常を生きる。
こぼれ出るなにか。
北陸新幹線の開通で、東京から日帰りも可能になった金沢21世紀美術館。10周年を迎えた昨年は「建築」をテーマとしてきたが、2015年度は「現代美術」をテーマに、「ザ・コンテンポラリー」と題し、3つの展覧会を通して同時代を問い直す。その第1弾「われらの時代:ポスト工業化社会の美術」が開催中だ。同館の8人のキュレーターが、主に2000年以降、活躍目覚ましい国内のアーティスト10組を選出(八木良太、アルマ望遠鏡プロジェクトは5月26日からの展示のため筆者未見)。そこから「関係性」「日常」「メディア」「ヴァナキュラー」というキーワードが導き出された。いずれの言葉も広範すぎるが、1作家1展示室をベースとした作品をいくつか対照しながら、鑑賞者が自由に掘り下げて考えることもできる。
例えば、「関係性」の一例となる、複数人による制作方法。大久保あり《争点のオブジェクト》や泉太郎《無題候補(虹の影が見えない)》では「演じる人」が登場する。三瀬夏之介の「東北画」プロジェクトには、土地や人々へのリサーチが結晶化している。スプツニ子!はSNSで出演者や制作スタッフを集め、月面着陸の夢を《ムーンウォーク☆︎マシーン、セレナの一歩》で活写。宇川直宏《DJ JOHN CAGE & THE 1000 WORLDWIDE DJS》では、インターネットを通じて世界中のDJが共時的に演奏する。金氏徹平は、雑誌の切り抜きやフィギュアなど第三者の手による既製品を集め、新たな形につくり変える。作家の主体のありかたはそれぞれ異なるが、まさしく「我」ではなく「我ら」の時代だ。
また、ものから情報が主力となったポスト工業化社会では、「メディア」が「日常」にも浸透し、リアリティの感覚を揺さぶる。小金沢健人《他人の靴》は、ISの日本人人質事件で拘束時に配信された映像が気にかかり、映像の問題から考察した作品だ。「ISの広報は、ハリウッド映画の演出手法を取り入れている」「映像には合成や加工がある」などさまざまな推測を聞くが、何が真実で虚構なのか、プロパガンダとしても意図が読みきれないと言う。例えば、後藤健二氏の最後通告の映像で、途中、アングルが正面から横に切り替わったのは何故なのか、2つのジオラマで問いかける。作品名は「他人の靴に足を入れてみなさい」という西洋のことわざに由来する。パネルの穴や鏡は、当事者意識を引き出す仕掛けだ。私は、ISが後藤氏の祈りの目から逃れようとしたのではないかと思いたい。が、現実はもっと不条理だし、映像は現実を操作する。写真や映像が多いのも本展の特色だが、鑑賞者が、多様な視点で解釈・表現する力を養う機会としても有効かと思う。
小金沢はもう一作品《蝶を放つ》という映像作品を通路に設置し、映像の力である、ファンタジーを解き放した。素朴で生命感あふれる「蝶」は、束芋が民俗学者との対話から「白」に畏怖を感じて制作したアニメーション作品《TOZEN》へと飛来する。波、壁の奥、少女、鳩などが死と再生を想起させる。「ヴァナキュラー」=土地の物語もまた集合的無意識からなる。三瀬の絵画《ぼくの神さま》《日本の絵~執拗低音》では日本のルーツの見方が変わる。
一方、映像に映ってしまう背景を前景化した泉の作品では、343人の参加者が木のコスプレをし、コスプレイヤーが扮する映画やアニメのキャラクターが森を駆け巡り、泉が写真撮影する映像が映る。演じた俳優が没しても生き残るイメージ。抜け殻の木々が残す、人の気配。同じくらい感触が伝わる映像を、泉は撮りたいのかもしれない。
3.11以後、不安が影を落とす日常。被災地への復興支援策は不充分なまま、都市では再開発が進み、政治や情報システムがその影を消そうとする現在。ポスト工業化社会のアートでは、つくりながらそれを超えてこぼれ出るなにか、鑑賞者にはそれを感受する嗅覚がますます重要になるだろう。こぼれ種が未来への暗号となる。大久保や金氏の世界で、複数のメディアで空間や時間を移送され、スプツニ子!や宇川の世界で、デジタルメディアで現実を楽しく逆手に取る手段を学んだりしながら、われらの奇妙な日常を今日も生きる。
ザ・コンテンポラリー1
われらの時代:ポスト工業化社会の美術
▼期間
2015年4月25日(土)〜2015年8月30日(日)
10:00〜18:00(金・土曜日は20:00まで)
▼会場
金沢21世紀美術館 展示室
長期インスタレーションルーム:5/26〜9/6
デザインギャラリー:5/26〜11/15
▼休場日
月曜日(ただし5/4、7/20、8/17は開場)、5/7、7/21