菊地慎と多才な音楽家/ピアニストの小瀬村晶によるレーベル、Scholeがリリースする新しい作品は、ドイツの新鋭音楽家であるティム・リングハウスのデビュー・アルバム『Memory Sketches』だ。本作のサウンドを一言で説明するとしたら、ピアノが奏でる優しく、儚げな旋律を中心に据えた、ポスト・クラシカルとアンビエントの中間のような手触りの音、だろうか。
印象的なのは時折聴かれるアトモスフェリックなシンセサイザーとある1曲で鳴らされるドラムマシンで、アルバム全編を靄のように覆っているアナログ・レコードのようなノイズとともに、その響きは聴き手に強烈なノスタルジーを喚起する。
そんな『Memory Sketches』という作品の背景にある思想、そしてティム・リングハウスという新たな才能を紹介するのは岡田拓郎――2015年に解散した森は生きているの元リーダーで、2017年のソロ・アルバム『ノスタルジア』が多くのリスナーやクリティックから賛辞を贈られた若き鋭才ミュージシャン/ギタリストだ。『ノスタルジア』とどこかで通じるところも感じられるティム・リングハウスの『Memory Sketches』を、岡田は〈コモン・ミュージック〉だと論じる。その理由は以下の通り。ぜひ最後まで読んで、それを確かめてほしい。 *Mikiki編集部
私的な思い出を表現した『Memory Sketches』
卒業式が終わった後に家に帰ったこと。祖母を車に乗せて病院に連れていったこと。父の葬式でラジオを使って彼と話せないか試みたこと。89年にベルリンの壁が崩壊して間もない頃に、初めてボルンホルマー通りでドイツの境界線を渡ったこと……。
『Memory Sketches』は、ドイツ人音楽家ティム・リングハウス自身の記憶を音楽という媒体を介して形にした至極パーソナルな音楽作品である。と同時に、誰しもが持つひとつひとつの記憶へと形を変えていく可能性がある〈コモン・ミュージック〉でもある。そして、ティム本人が解説で語っているように、これは〈ただの音楽〉でしかない。かもしれない。
80年代初頭にドイツに生まれたティム・リングハウス。子供の頃に父親が所有していたギターとYAMAHA RX11(ドラムマシン)で音楽制作をはじめ、10代の頃は多くのギター・キッズと同様にメタルからシンガー・ソングライター的なものまで、様々なスタイルのバンド活動に勤しんだ。
現在ではピアノとシンセサイザーをメインに音楽を制作している彼だが、2016年にカナダのアンビエント/エレクトロ・レーベル、モデルナ・レコーズから6曲入りのEP『Vhoir』をリリース。2017年には同レーベルからリリースされたコンピレーション『Algorithmics』に、本作のアイデアの一片のようなアンビエント・トラック“Funeral For Dad”を提供している。
パーソナル、だが誰しもが共有できる〈Memory〉
さて、本作『Memory Sketches』は、前文でも触れたように、ティム・リングハウスの記憶や家族との思い出が収められた引き出しをひとつずつそっと開けて垣間見るような、そんな作品に仕上がっている。だが、本作が前作のようなアンビエント/ポスト・クラシカル的な枠だけに収まりきらないのは、本人が「シンセサイザーの音を聴いて80年代を過ごした自分としては、今回のアルバムでこの楽器を使用することは自然の成り行きであった」と語るように、80sライクなシンセサイザーやドラムマシンを用いたことが大きい。
なかでも“Into The Darker Architecture Of Yours”と“RX”が、耳を引く。ある種ヴェイパーウェイヴ的とも言えるそれらの曲は、ソフトウェア『Digital-Dance』(87年)やダンシング・ファンタジー『Midnight Blvd.』(90年)といった、ヴェイパーウェイヴが一段落したここ数年の再評価著しい、80年代後半から90年代初頭のニューエイジ/アンビエント作品を思わせる。
だが、大衆消費社会/消費資本主義的なアイコンの顔から目と鼻を剥ぎ取ったかのようなヴェイパーウェイヴの匿名的で批評的なあり方とは異なり、『Memory Sketches』のサウンドは時に鮮明に、時にぼんやりと朧げに漂う。それは古い記憶のように、あくまでプライヴェートな郷愁として形作られているのだ。そして、その懐かしさはソーシャル・ネットワークに取り囲まれて逃げ場のない2018年に、行き場を失った〈エスケーピズム〉を肯定する優しさのようなものを孕んでいるように感じられる。
懐かしさに〈浸る〉という表現は言い得て妙だと感じるが、人は過去の記憶に何を見出すのか。いまが報われないのであれば、過去の美しい日々に浸ってみたり、なんだかんだ、いまに居場所を見出せたのであれば、報われない日々を思い返し、いまを噛み締めたりするのかもしれない。ティム・リングハウスが『Memory Sketches』で映し出した至極プライヴェートな懐かしい〈あの頃〉の記憶は、私的ではあるが、同時に万人が平等に持つ〈あの頃〉の記憶も思い起こさせるはずだ。
本作の通奏低音となっている擦り切れたレコード・ノイズや波の音のようなヒス・ノイズが聴き手の意識をぼやけさせる。そのなかをゆったりと揺蕩う、幼少時代に耳にしたかのような古いアップライト・ピアノの音色。そして、80、90年代に生まれた私たちの記憶に焼き付くシンセサイザーやドラムマシンの響き……(この世代に生まれた者であれば、きっと両親はこんな音色のシンセサイザーが入った音楽をよくカーステレオから流していたはずで、その響きから猛烈に幼少期の頃を思い出しやしないだろうか!)。 『Memory Sketches』はあくまでティムのプライヴェートな範囲のことを描いた作品であるにもかかわらず、誰しもが共有できる〈Memory〉という言葉をそっと掲げることで強度のある、懐の深い作品に仕上がっていると感じられる。
「これはただの音楽でしかない」
ここでティム本人による解説を抜粋して引用したい。
「記憶とは何か。それは我々の過去の破片が脳裏に映像として思い出されるものか。それは前の自分が現在の自分に話しかけている現象、またはその逆の現象のことなのか。それはデジャヴや白昼夢で繰り返される感情及び匂いのことか。また、これらを総和したものなのか。私にとって記憶とは、自分とは何者かを明確に出来るものである。時には鋭く明白に、大抵はぼやけて脆いが、自分と非現実や未来に存在するものとの結びつきを持たせてくれる。
この『Memory Sketches』の背景には、特定の記憶を形に変えて残すという考えがある。そのため、ここには自分が大切にしてきた記憶の数々を集約している。これら全ては、約20年に渡る私的な記憶のコレクションである。最も古い記憶は80年代から90年代の子供時代まで遡り、最近のでは父が亡くなった2002年の記憶である。
最終的に、このアルバムでは自分自身の過去や家族との想い出を駆け巡り、時間や生や死について省察する作品となった。同時に、これはただの音楽でしかない」
音楽とは何か
――ティム・リングハウスの『Memory Sketches』がコモン・ミュージックである理由
音楽とは何か。ビーチ・ボーイズの“Good Vibration”からジョン・ケージの“4'33"”まで、種々様々な音楽に共通しているのは〈ある始点から終点への時間経過〉、すなわち〈時間〉そのものである、と言えるはずだ。それでは、時間の経過でしかない音楽というものを感受し、判別している自分自身の意識はいったい何であるのか、と考えたことはないだろうか。
ある音楽が鳴らされたとして、それが空気を振るわせて、聴き手の耳を伝って脳へ入った後のプロセスは次のようなものだと思う。その音楽によって聴き手が脳内に持つ、過去の記憶を収めた棚が震えだす。そのなかからひとりでに飛び出してきてしまった幾つかの引き出しのなかの記憶と、いま実際に感知している時間とを照らし合わせる――音楽を聴くとは、そのような過程だろう。
例えば、こんな体験はないだろうか。あるレコードに針を落とした途端に、それ以前はすっかり忘れてしまっていたような過去の記憶や、あるいは過去に経験したことがある(ような気がする)イメージの断片かもしれない、そんなものが呼び起こされるような不思議な体験は。
多くのリスナーが音楽に音符の羅列以上の意味合いを至極自然に見出すことができるのはなぜだろうか? それはおそらく、過去、現在、未来という時間や、記憶という、生物にとってあまりに親密だが言葉にし難い、ともすればサイケデリックなものに対していとも簡単にアクセス出来てしまう作用が音楽にあるからだろう。そういった意味で、ティム・リングハウスの『Memory Sketches』は誰しもの記憶にそっと寄り添う、誰しものコモン・ミュージックでありやしないか。