コラム

〈浪曲映画祭―情念の美学2020〉忘れられた情念を現在形で全開にしていこう

溝口健二「元禄忠臣蔵」前・後編 松竹

新たな、〈情〉のかたちへ

 浪曲は大きな謎である。昨年に次いで2度目となった本映画祭の〈お知らせ〉が告げるように、「浪曲人気が衰え」たのは「1950年代」に入ってからにすぎず、ついこの間ぐらいまでは100円ショップでも浪曲のCDを置いていた。私の世代からすれば、諸先輩方はそれでもまだ浪曲を論じる〈教養〉を持っている方々がいらっしゃった。〈文学〉にしろ〈映画〉にしろ、いわゆる日本語の表現の〈文体〉には浪曲のフローが刻み込まれていると考えるべき、感じるべきものは無数にあるが、浪曲のグルーヴを耳から、身体から入れていないと、そのこと自体が感受できないかもと、私などは感じることもすくなくない。

 謎とされることもないままに、その記憶が根こそぎにされてしまったこと自体を謎ととらえなければならないほどに、〈なかった〉ことにされ、あるいは、私たちの世代の怠慢もあるのだろうけど、放置されてきたのだ。あるいは、よくてせいぜい〈古典芸能〉の美名のもと、幽閉されてきたのだった。

「母の瞳」KADOKAWA

 1950年代なんてついこの間の話だ。世界中の大衆音楽では1930年代ぐらいまでは平気で蘇らせてくるのが通常であり、それが人びとの歴史をつくってきた。今回の上映題目にも挙げられている赤穂浪士のネタのように、例えば〈仇討ち〉ものなどは、戦後アメリカ的民主主義を阻害するものとして、GHQに上映規制を受けたものもある。限定的な民主主義の、あるいはGHQの〈敵〉は、〈アカ〉だけではなく、こうした日本民衆文化、そして自分たちの国のダークサイドをあらわにしたもの(人種差別ものの上映規制されている)と、実は多岐に及ぶ。

 とはいえ、GHQだけのせいにするのはフェアではない。過渡期において、日本の人びとは、浪曲とジャズを、歌謡曲を、ロカビリーを渾然として享受もしてたはずだし、私たちの世代でさえ〈そんな浪花節はうんざりなんですよ〉(人情ではなく、合理性なりカネ計算なりを優先する)という否定的な表現であっても、まだ浪曲の生きた影響下にあったはずだ。

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