映画『雨月物語』(C)KADOKAWA

 

溝口健二没後60年・増村保造没後30年 特別企画
二人の作品の「女たち」についての憶測

 もうすぐ「変貌する女たち」と題された溝口健二増村保造の特集上映が始まる。かねて師弟のように語られてきたこの二人の諸作品を、「女たち」についての勝手な憶測でひとつの文脈に置いてみるのも楽しい。たとえば『赤線地帯』('56)など溝口の晩年の3作品で助監督をつとめた増村の『爛(ただれ)』('62)は、若尾文子によって結ばれた『赤線地帯』の後日譚で、客から小銭をせしめて貯めた金で布団屋の経営者に成り上がった娼婦の6年後が、二号さん専用アパートで恋人の正妻の座を狙って息巻くホステスなのであった、といったように。そして「女たち」という仮の共通項でひとくくりに考えるならば、両監督の作品を交互に見るなどしてむしろ作風のちがいに注意するのも面白いだろう。

 では溝口と増村の映画を実際に代わりばんこに見るとどうなるのか。そもそも画面比率が異なるので、ひと作品ごとにスクリーンが広がったり縮まったりするという事態に僕らは直面するはずだ。というのも全作品が正方形に近いスタンダードサイズの溝口に対して、増村作品は大半が横長のスコープサイズであるからだ。まあ大映の場合は58年に大映スコープが採用されたので画面比率については監督の意図とは考えにくいのだが。

映画『赤線地帯』(C)KADOKAWA
 

 しかし画面の使い方というと監督の意志そのものであって、この二人はそこが全然ちがう。長い移動撮影を多用した溝口については「1シーン1カット」「長回し」といった言葉でしばしばその特徴が語られてきたが、それは女の本能の動きをつぶさに描くためにはカットを割らずに物理的な限界までキャメラが追いかけることが必要だったからだ、と畏敬を込めて評したのは増村であった。しかし当の増村はまるで逆の方法をとって、画面から女優を決して逃さないようにポジションやアングルを目まぐるしく切り替えた。追いかけるのではなく、まるで動きを先回りしたかのように(そういう意味で逆)である。増村が溝口の真似を避けるためにあえて逆の手を使ったのではないかと勘ぐりたくなるほど鮮やかに異なるのだが、どうなんだろうか。溝口は小学校しか出ていない放蕩三昧の不良で、無学のせいか帝大や役人といった権威に弱く、ヒラの巡査にさえペコペコしていた、と評した増村こそが帝大(東大)に二度も入学したエリートであった。何から何まで自分と異なる師匠について、さぞや複雑な感情を持っていたにちがいない。

映画『爛』(C)KADOKAWA
 

 そして決定的にちがうのは登場する「女たち」のことだ。溝口が映画に撮ったのが「女性」なら、増村のは「女優」である。溝口が女優を使って女性を描いたというなら、増村は女性の登場人物を演じる女優という怪物を撮ることに心血を注いだといえそうだ。ちなみに上映期間のほぼ全日を5作品で組んでいる角川シネマのプログラムのうち、両監督の作品を交互に見ることを可能にしている日が2日だけある。そのとき僕らは、二人の監督が執着したという「女たち」の指すものが大きく異なることに気づくはずである。

 


映画『溝口健二&増村保造 映画祭 変貌する女たち』
溝口健二:『雨月物語』(4K復刻版)『噂の女』『お遊さま』『祇園囃子』『山椒大夫』『楊貴妃』『新・平家物語』『近松物語』
増村保造:『青空娘』『赤い天使』『からっ風野郎』『しびれくらげ』『妻は告白する』『華岡青洲の妻』『女の一生』『くちづけ』『痴人の愛』ほか
配給:角川映画 
(C)KADOKAWA1953
◎12/23(金)より角川シネマ新宿ほか全国順次公開 
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