シンガー・ソングライター、朝日美穂が7年ぶりのフル・アルバム『島が見えたよ』をリリースした。本作には、楠均&千ヶ崎学という長年彼女を支えてきたリズム・セクションに加えて、エマーソン北村、西田修大、Babiらさまざまなゲスト・ミュージシャンが参加。フィジカルな演奏とエレクトロニクスを溶け合わせつつ、ジャズやクラシック、ブラジルなどさまざまなを音楽性を巧みに採り入れた、優美なポップソング集に仕上がっている。
今回、Mikikiではこの新作についての合評を掲載。朝日美穂のキャリアに精通している音楽ライターの吉本秀純、90年代後半の自身が多感な時期に朝日の音楽に出会い、近年ふたたび愛聴しているという音楽学の研究者、渡邊未帆の両氏に筆を執ってもらった。 *Mikiki編集部

鋭敏な音楽センスは変わらずも、力みなく軽やかに羽ばたく
by 吉本秀純
97年にメジャー・デビューした直後くらいに朝日美穂に初めてインタビュー取材をしたときに、興味を持っている音楽家としてスクエアプッシャーの名前が彼女の口から挙がったことは、いまでもよく覚えている。少なくともJ-Popのフィールドで活躍する女性シンガー・ソングライターからそんな名前が挙がることは他では皆無だったし、翌年に出た初のアルバム『ONION』でさかな(Sakana)の楽曲“ロッキング・チェア”をカバーしていたことにも唸らされた。
とはいえ、基本的な音楽性はポップかつ朗らかであり、先鋭的なサウンド・プロダクションを取り入れた楽曲やソウルフルなグルーヴを放つナンバーもあれば、極めてシンプルなピアノ・バラードもある。リンダ・ルイスに例えたくなる天衣無縫にして柔軟性の高い歌声で、1曲ごとにかなり異なった音楽的アイデアが盛り込まれた楽曲群をスイスイと乗りこなしていく魅力は、子育て期間を経て7年ぶりに届けられた最新作『島が見えたよ』でも健在だ。
ハイエイタス・カイヨーテやノウアーからの影響を独自消化したシンセ・ファンクから、子供のピアノ・レッスンに付き合うなかでモーツァルトが幼少期に書いた舞曲に触発されたことで生まれ、ショーロ的なクラリネットの効かせ方も絶妙な“朝がくるよ”、地下鉄のアナウンスもSE的に挟みながら出勤中の焦燥感をブルージーになりすぎずに歌った“Wednesdayブルース”、多重録音アカペラな“スウィンギン・デイズ”などを収録。他にもブラジリアンありBabiが手掛けた室内楽アレンジもありで、言葉にして説明すると高密度だが、全体的には軽やかだ。
前作『ひつじ雲』(2013年)以降、子育てに翻弄されながら創作活動を続けてきた彼女の日常、成長していく息子への愛情に溢れた眼差しがリアルに曲の端々に反映されているのが微笑ましくもあり、これまでにない地に足の着いた力強さも感じさせる。サウンドの方向性としては、意外にも99年に発表されたメジャー2作目の『スリル・マーチ』(トータス『TNT』への返答とも呼べる傑作ながら、いまだに配信でも聴けないのは無念!)にもっとも近い気がするのだが、シリアスかつ内省的なムードを強めた当時とは真逆に、力みがなくナチュラルなのも興味深い。
曲の終盤で〈I Love You So…〉と控えめに歌い添える部分にグッとくる“ベーグルソング”、すでに息子がいつの日かひとり立ちする時まで見据えた“春が来た”と続く、鍵盤の弾き語りがメインでシンガー・ソングライターとしての非凡さをストレートに示すラストの2曲も秀逸。エレクトロニクスと生演奏の境界線がない音作りなどサウンド面での聴きどころは多いが、何よりもあらゆるシチュエーションで奮闘する〈ママさん〉たちの耳に留まり、これまでとはまた違った聴き手からの〈共感〉を集めてほしい。
キッチンの秘密の扉の先にある音楽、すなわち〈希望〉
by 渡邊未帆
朝日美穂のデビュー・アルバム『ONION』(98年)を繰り返し聴いていたのは高校を卒業して上京したばかりの頃だった。激しい孤独や色恋沙汰の乱気流に振り落とされそうになりながらも、あの頃はもっと遠くへ、もっと深くへ、行けると思っていた。世界の果てから、絶望のどん底へも。あれ、今、そこへはどうやって行くんだっけ……。ふと、思考回路の扉を開く鍵を見失ってしまう。
SNSでは〈救いようのない話〉が、見えざる手によってサラリと〈いい話〉にすり替えられて、次々と流れていく。本当はあの頃よりも、私たちはずっと未来なんか描けない、絶望に足を踏み入れているはずなのに。〈おとなになる〉ということは、抉られるような気持ちを封じ込めること、煮え切らない思いに声をあげることをやめて、そんなことはまるでなかったことかのように颯爽と振る舞うことだ。そうこうしているうちに、自分が受けた傷の深さも、相手に与えたパンチの強さも忘れてしまうのだ。何よりも私が切なく、恐ろしく思うのは、その〈忘却〉である。
あれから22年経って、朝日美穂はもしかしたらもう孤独や恋なんか歌わないかもしれない。私はと言えば、恥ずかしながら、このジャンルの音楽をほとんど聴かなくなってしまった。彼女は、洗濯機が回り終わるのとパンが焼けるのとの合間に、自分と自分の大切なものの日常を守りながら、歌う。7年ぶりの新作『島が見えたよ』には、彼女の感情生活の報告が詰まっている。
やれやれ「君はスーパーでネギを買って、男のパンツを洗うためにパティ・スミスを聴いてきたのか?」(by阿木譲)というセリフは、もはや前世紀に死滅したマッチョイズムである。自宅のキッチンにいながらにして、あたりまえの野心を持って事物の変化を掴み取り、一瞬のうちに、秘密の思考回路へトリップする扉を見つけることは、可能なのだ! そのトリップを可能にするのは音楽だ。音楽しかない。このアルバム一曲一曲の断層からは、異世界のポップ・ミュージックの反響が聴こえる。
さて、しかしながら私たちは今、遠くへ旅することも、人と会うことも、大きな夢を実現させることも、音楽をすることも〈不要不急〉だと思わされている。全人類が背負っている困難である。その困難の隙間から手繰り寄せられた言葉を、彼女は、これからも困難は困難のままに、癒えない傷は癒えないままに、正直に、でも遊び心を持って、歌うだろう。
そして、もしこの歌の先に何か見えたとすれば、それを〈希望〉と呼んでもいいのではなかろうか。たとえそれが、すぐ近くにあったとしても。今、聴きたかったのはそういう歌だ。同時代に生まれた〈ポップソング〉と再び共振した奇跡を祝いたい。
INFORMATION
朝日美穂『島が見えたよ』リリース記念 生配信ライブ@下北沢 Com.Cafe 音倉
2020年8月1日(土)
開始:22:00
出演:朝日美穂(ヴォーカル/キーボード)/楠均(ドラムス)/千ヶ崎学(ベース)/高橋健太郎(ギター)
ゲスト:アンドウケンジロウ(クラリネット)
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