撮影:鈴木渉

その人の取り替えのきかなさ

 〈フェスティバル/トーキョー(以下、F/T)〉に8年ぶりの登場となる村川拓也。今回発表の作品「ムーンライト」は、ベートーヴェンの“月光”に惹かれてピアノを始めたという京都在住の70代の男性の人生を、ピアノの発表会という形式を借りて浮かび上がらせるというもの。そこに至るまでにどんな経緯があり、その背後にはどんな問題が隠されているのか――。村川と、F/T20のディレクター、長島確に語り合ってもらった。


 

長島「村川さんはドキュメンタリー映画から演劇に入られたわけですが、台本を使わない、戯曲ベースではないかたちで作品をつくられてますね。そこでは現実の人や出来事を扱うわけですが、それをそのまま舞台に上げて終わりというわけにもいかない。どうやってそういうつくり方を見つけてこられたんですか?」

村川拓也「戯曲や小説を使ったことはこれまでに数回しかないですね。あまりうまくいかなくて、今後また使うこともあるかもしれませんが、今は控えています。で、ある作品をつくってるときに、出てくれてる人に――その人は俳優じゃなくて、介護・介助の仕事をしている人だったんですけど、でも僕はその人のことがすごく好きやったんで、どうしたら彼の魅力を引き出せるのかなと思って、あるとき〈稽古場で介護・介助の仕事を再現してみて〉っていったんですよ。そしたら、それがめちゃくちゃおもろいわけです。ほんまは俺、こういうことがおもろいと思ってたんだよな、と。そのときはこれが舞台上にのっけて作品になるとはまったく思ってなかったんですけど、それがF/T11でも上演した『ツァイトゲーバー』の原型になってます」

長島「『ムーンライト』が面白いのは、“月光ソナタ”を使いながらも、曲そのものより、むしろそれにまつわる中島さんの人生の方が軸となって曲を立ち上げているところです。この作品はどういう経緯でスタートしたんですか?」

村川「もともと京都で、地域と文化会館の関係を考えるというテーマで作品を作ってくれっていうお話をいただいてたんです。上演する劇場は決まっていたので、ひとまずそこでどういう催し物がされていて、地域の人がどう活用しているかを調べようと思って通っていたら、ピアノの発表会が多いんですね。で僕、もともとピアノの発表会が好きなんです(笑)。ふつうピアノの発表会って、そこで演奏する子どもの親しか見にいかないですよね。自分の子どもの出番が来るまでは、おしゃべりしたりケータイ見てたりして。出番が来るとケータイで写真を撮って、出番が終わるとすぐ帰る(笑)。僕は完全に部外者なんですが、そういうなまのリアルな子どもたちとか家族たちの姿が見られて、面白いんですよね。だから、ピアノの発表会を何かしら使おうとは思ってました」

長島「今回出演される中島さんは、そのときの発表会で知り合ったわけではないんですか?」

村川「いや、違うんです。発表会だと、子どもから大学生くらいまで順番に弾いていくんですけど、年代によって弾く曲も変わっていくじゃないですか。それを見てたら、あるひとりの人間の成長を見てるような気がしたんですね。じゃあ、ピアノの発表会の形式を使って、ある人の人生を演奏者たちが描いていくことができないかと考えたんです。今はご高齢だけれど、ピアノはずっと弾いてきたっていう人の。その人の子どものころのような人が出てきて、その人が当時弾いてた曲を弾く、と、最初はそういうベタなことを考えてました。

 実際にそういう人を探してるうちに、今回出てくれる中島さんを紹介してくれる人がいたんですね。ちょっと目が悪くて、でも全然元気にしてるよって。僕、その人と家がすごく近かったんで、一回行ってみたら、もう一瞬で、この人に決定、と思って。人が面白いんですよ。目がいまほとんど見えないんですけど、それなのにものすごくふつうなんです。目が本当に見えなくなってきたのはここ5年くらいらしいんですけど、目のこと全然気にしてない。ただ目が見えないだけだっていうんです。そういう彼の性格とか、ものの考え方に惹かれましたね。“月光”が好きっていって弾いてくれるんですけど、全然弾けないんですよ。でも、その弾けなさもいいし、弾けないことを彼は目のせいにもしない。『練習が足りないからだ』っていうんです。『いや、目が見えないと鍵盤がわからないですよね』っていうと、『いや、練習すればわかるから、それは関係ない』っていい張るんです。そういうところも僕は面白くて。そういう出会いでした」

――そうすると、この作品は、その中島さんがいないと成立しない作品なんですね。

村川「そうです、この作品は中島さんの人生を描くものですね、基本的には。彼の語りによって、彼の人生をもう一度物語っていくという、ものすごくシンプルな作品です」