「69 Pages for Harold Budd」ハロルド・バッド追悼――芦川聡の追憶とともに
いま、手元に「69 Pages For Harold Budd」という手のひらサイズの小冊子がある。ページが何枚かほどけてしまって、丁寧にめくらないとバラバラになってしまう。昨年12月8日にCOVID-19による合併症によって84歳で亡くなったというハロルド・バッドの訃報に接し、本棚の片隅のどこかにこの小冊子をあったことを思い出し、やっと見つけることができた。
83年5月、バッドは〈Harold Budd Piano Concert〉のために初来日。六本木AXISギャラリーで開催されたのだが、この「69 Pages」は、そのときのカタログとして刊行された。そのバッドのコンサートは、アメリカに留学中で、残念ながら聴くことができなかったが、6月に帰国したときに、コンサートを企画した芦川聡からこの「69 Pages」をもらうことができた。しかしながら、その翌月の7月に30歳の若さで芦川は帰らぬ人になってしまった。バッドの訃報は、この「69 Pages」の存在を通じて、芦川のことを呼び覚ます機会ともなった。
あらためて、「69 Pages」のページをゆっくりと一枚一枚めくってみた。まず、表紙の裏のページには、“Let Us Go Into The House Of The Lord”(74年)の楽譜が掲載されている。バッド自身の繊細な筆跡によってさまざまなアルペジオが譜面の上に散りばめられ、その五線譜だけからも、移ろいながら変容する柔らかなバッド独特の響きを感じることができる。この曲を含めて、バッドの1970年代初期のいくつかの楽譜は、ピーター・ガーランドが編集した「Soundings」という雑誌に掲載されている。僕自身、カリフォルニア大学サンディエゴ校で学んでいたころ、図書館に収められていた「Soundings」からアメリカの作曲家たちの楽譜をコピーしたのだが、そのなかにバッドの“Madrigals Of The Rose Angel”(72年)や“Butterfly Sunday”(73年)などの楽譜も含まれていた。
アメリカから持ち帰ったバッドの楽譜が役に立つときがきた。96年に東京都現代美術館で〈デイヴィッド・ホックニー版画展 1954-1995〉が開催されたが、その関連したコンサートを美術館から依頼され、〈ロサンジェルスから生まれたミニマル・ミュージック〉と題した公演を企画したのである。そのときに、バッドの3つの作品とともに、バッドの同世代のダニエル・レンツやデヴィッド・マーラー、そして、カリフォルニア芸術大学(Cal Arts)でバッドから学んだガーランドたちの作品を紹介したのである。演奏は、メゾソプラノの野々下由香里さんやピアノの柴野さつきさん。おそらく、バッドの3つの作品は日本初演だったと思う。
90年代になると、ライヒやグラスに代表されるミニマル的な傾向は、日本でもかなり知られるようになったが、「Soundings」に楽譜が掲載されたアメリカの実験的な作曲家たちの音楽は、あまり紹介されていなかった。〈カリフォルニア的〉と括ってしまっては、大雑把かもしれないが、ただ、この土地に居を構えたり、活動の拠点としていた作曲家たちの音楽には、脱構築的であったり、心地よい響きや美しい旋律的な抑揚に優位性をおくような傾向にあった。その代表的だったのが、ダニエル・レンツやハロルド・バッドたちだった。二人ともアカデミックな教育を受けながらも、前衛的な音楽とは正反対の方向へ強い意志をもって向かっていった。バッドは、2年間くらい作曲を中止した時期があったが、72年からCal Artsで教えるようになり、作曲も再スタートとしたという。この頃の作品が「Soundings」に掲載された一連の作品であり、その後、『The Pavilion Of Dreams(夢のパヴィリオン)』というタイトルとしてまとめられた。
『The Pavilion Of Dreams』を通じて、ブライアン・イーノとの出会いが生まれ、バッドにとっても大きなターニングポイントを迎えることになる。『69 Pages』のなかで、イーノとの出会いについて、芦川聡の質問にバッドは次のように答えている。
76年、イーノと出会った。彼は私の作品『夢のパヴィリオン』をテープですでに聴いていた。それは、ヨーロッパの作曲家たち、特にギャヴィン・ブライアーズから渡っていたのだ。ある時、彼は私に手紙だったか電話だったかをよこして……はっきり覚えていないが。そして、その曲とそれ以外の私がそれまで創っていた曲を録音するため、ロンドンに来るように言ってきたのだ。我々は、お互いの音楽と音楽の考え方が大変気に入り、それ以来付き合いが続いている。
この時の録音には、イーノをはじめ、ブライアーズ、マイケル・ナイマン、ジョン・ホワイトなど、多くのイギリスの実験音楽家が参加し、イーノが立ち上げたObscureレーベルから78年にLPがリリースされた。そして、イーノとの共作となる『Ambient 2: The Plateaux Of Mirror』(80年)や『The Pearl』(84年)などを通じてバッドが脚光を浴びることになる。このような時期にバッドのピアノ・コンサートが東京で実現したのである。