今年6月のある日、自室の押入を整理していたら見覚えのないCD-Rがあった。数年前に亡くなられた音楽ライター氏の名刺が挟まっていたがそれを預かった記憶はない。押入のその場所から察するに20数年前のものと思われ、盤面には〈Speed, Glue & Shinki〉と記されていた。
実はこのとき初めてそのCD-Rを聴いてみたのだが、ライブ会場の客席にてオープンリールで録られたと思われるノイズ、屋外で行われたであろう空気感、そして何よりジョーイ・スミス(ドラムス/ボーカル)、加部正義(ベース)、陳信輝(ギター)の何事にも囚われない演奏が素晴らしく、特に、ドロッとしてしかも乾ききったギターの音は、オリジナルアルバムを聴いて感じた以上のものだった。
そのまますぐに陳信輝さんに連絡、そうしてこの71年に行われたライブが1枚のCDアルバム『MAAHNGAMYAUH』となった。
やり直しにやり直しを重ねたマスタリングがようやく終わった日、陳信輝さんに話を訊いた。当時のことはほとんど覚えていないというので、3年後輩にあたる同じく大陸出身の横浜ロックレジェンド、李世福さんに同席いただき、少年時代のことからスピード・グルー&シンキ解散までを語ってもらった(2021年9月、横浜中華街〈李世福のアトリエ〉にて)。
アメリカ文化をいち早く取り入れた横浜ロック前史
――陳さんと李さんは小学校から同じだったんですね。
李世福「私が1年生の時、信輝さんは4年でした。中華中学(現在の横浜中華学院)は学年に1クラスしかなくて全学年一緒の感じだから先輩だけど友達みたいな感じでしたね。遠足へ行った時も私が倒れたら担いでくれたり、長野にキャンプへ行った時も〈飯はこうやって作るんだよ〉って飯盒の炊き方をね、教えてくれたり。それからずっと兄のような感じで。
それが高校の時、いきなりバンドを始めたって言って、ドラムをやりだすんですよ。エレキギターをやってたのは知ってたんですけどね。それからある日、モデルの彼女を連れて来てね。みんなウチの家族とも知り合いだったからね」
――高校生でモデルの彼女ですか!
李「高校生ですでにサイケデリックな格好をしてましたよ。髪の毛も伸ばしてたし。
ある日、家に帰ったら信輝さんがいて、ギターを弾いてるんですよ。〈これ、適当でインチキなんだけどね〉って(ベンチャーズの)“逃亡者”を弾いてたんですね。もうビックリしてね。自分もベンチャーズを弾いてたんだけど“キャラバン”と“逃亡者”は難しくて出来なかったから」
――陳さんはいつギターを始めたんですか。
陳信輝「中華中学の学園祭で鴻昌(横浜中華街の中華料理店)の廣ちゃん(潘廣源=エディ藩)と萬珍樓(同じく横浜中華街の中華料理店)の息子のバンドを見てギターをやりたいなと思ったのが13歳の時。
それで友達の兄貴がギターを売りたいって言うから3,000円で買ったんだよ、グヤトーンのギターを。で、弾いてみろって言うから弾いたら弾けちゃったんだよ、なぜかその場で。初めてだよ。その謎の秘密は教えられないけど。
最初は自己流じゃなくて、コピーするお手本があった。レコードだね。ベンチャーズ、ローリング・ストーンズ、キンクス。(レコードを)買ったことはなかったけど」
李「PX(本牧の米軍住宅地にある物品販売所)でね。アメリカ人の友達も多かったし、ウチの兄もアメリカンスクールに通っていたから、日本で売ってないアメリカのレコードはすぐ手に入った。ジミ・ヘンドリックスとかね。
私が演奏するのはパーティーがメインだったけど、信輝さんは最初から第一線でしたね」
陳「お店だね。たくさんあったから、そこでスカウトされて。でもすぐ帰されるんだよ、音がデカいから」
――キャバレーとかのハコバンですか?
陳「ハコバンはやったことない」
李「ゴーゴー喫茶やディスコティックだね」
陳「この辺(横浜市中区)だと、コルト45やロマンとかがあったね。66年くらいかな」
李「そう、自分が高校2年の時に見に行ったから」