激動の時代とともに生きる――フレデリック・ジェフスキ追悼

“「不屈の民」変奏曲”により知られることになったジェフスキの音楽

 フレデリック・ジェフスキの音楽をはじめてコンサートで聴いたのは、1980年代の初め頃だったと思う。作曲家の久石譲を中心に結成されたミニマル・ミュージックのグループ〈ムクワジュ・アンサンブル〉のコンサートで、“パニュルジの羊(付和雷同者たち)”(1968)がメンバーたちによって演奏されたのである。私の記憶が正しければ、作曲家の松平頼暁氏も飛び入りで演奏に参加していた。演奏者のミスをあらかじめ想定し、間違っても直さずにそのまま続けていいというノンシャランなインストラクションが気に入って、興味津々で聴いたことを覚えている。

 ちょうど同じ時期の1981年に、武満徹の企画・構成による〈今日の音楽〉で、“「不屈の民」変奏曲”(1975)が初演者のウルスラ・オッペンスによって演奏された。おそらく私より上の世代の人たちは、高橋悠治の演奏ですでにこの曲は知っていたであろう。1973年にチリのアジェンデ政権がクーデターで倒される少し前に作曲家セルヒオ・オルテガとフォーク・グループ〈キラパジュン〉の合作としてつくられ、民主化運動の中で歌われた歌“団結した人民は決して敗れることはない”による36の変奏曲である。まずテーマが力強く奏されたあと、最初に出てくる変奏に度肝を抜かれた。テーマのメロディが高音域や低音域に散らばって出てくるのだが、これは変奏曲の通例からすると、一連の変奏の最後の方で使われる手法である。最初からこうだとすると、この後どうなるのだろうと思いながら聴いたが、超絶技巧を駆使したその変奏手法は、前衛風、ジャズ風、ミニマル風、即興風と次々と変転して実に多彩であり、最後にやってくる親しみ深いテーマの回帰をとりわけ感動的なものにしていた。(ジェフスキは1985年の「今日の音楽」のために来日し、コンサートを行ったが、筆者は留学中であったため、残念ながら聴くことができなかった。)

 フレデリック・ジェフスキは1938年、ポーランド生まれの薬剤師の父とやはりポーランド系の母の間に、マサチューセッツ州ウェストフィールドで生まれた。姉の弾くピアノに刺激されて4歳からピアノを習うようになり、6歳の時にカトリック教会のミンストレル・ショーで、ショパンのワルツを弾いたのが事実上のデビューとなった。二人目のピアノ教師が左翼思想の持ち主で、イデオロギーが絡むその教師のユニークなレッスンから大きな影響を受けたという。ハーヴァード大学とプリンストン大学で学んだ後、フルブライト奨学金でイタリアに渡り、ダラピッコラに師事した。またフォード財団の助成によってベルリンにも滞在した。この間にピアニストとしてヨーロッパ各地で演奏活動を行い、デヴィッド・テューダーに代わってシュトックハウゼンの難曲“ピアノ曲X”の初演と初録音を手がけて注目された。

 1966年、ローマでアルヴィン・カランやアラン・ブライアントら、当地で活動するアメリカの作曲家とともに〈ムジカ・エレットロニカ・ヴィーヴァMEV〉を結成し、電子音響を使った集団即興演奏に乗り出した。60年代から70年代にかけては各地で集団即興演奏が行われていたが、そうした中でMEVは伝統や規則から開放された独自の音響空間をつくろうとし、〈サウンド・プール〉と呼ばれるセッションでは聴衆の参加を促し、パフォーマーと聴衆の区別をなくすことを試みた。その演奏にはしばしば政治的なメッセージが差し挟まれており、1972年の大晦日にニューヨークの進歩的なラジオ局WBAIで演奏された“ストップ・ザ・ウォー”では、ニクソン大統領の命令によるベトナムのハノイのクリスマス爆撃に抗議して、“ジョニーが凱旋するとき”や“葬送ラッパ”“赤旗の歌”の断片が組み入れられた。

 こうした体験がもとになって、ジェフスキは社会政治的関心を“カミング・トゥゲザー”“アティカ”(1971, 72)などの作品で表明していく。1975年にサイゴンが陥落し、ベトナム戦争は終結を迎えたが、“「不屈の民」変奏曲”がローマで作曲されたのはまさにこの年であった。当時のローマには、ニューヨークの実験的な演劇集団〈リヴィング・シアター〉が移ってきており、またチリの連帯委員会本部も置かれるなど、文化的、政治的な運動の拠点にもなっていた。この作品にはそうした状況やMEVでの経験も生かされており、“不屈の民”とともに“赤旗の歌”、そしてブレヒト作詞、アイスラー作曲の“連帯の歌”も挿入されている。

 このように見てみるとこの変奏曲は、政治思想や斬新なスタイルを盛り込んだきわめてラディカルな曲であるように見える。しかし実はその形式的な枠組みは厳密に計算されており、ある意味で伝統的でさえある。

 まず、36小節からなるテーマに基づく36曲の変奏曲という数の設定は、J. S. バッハの“ゴルトベルク変奏曲”の32小節のアリアによる30の変奏を思い起こさせる(最初と最後のアリアを加えると、32曲になる)。36の変奏は6つの変奏からなる6つのグループに分けられ、各グループの最後の変奏は前の5つの変奏の要約になっている。第30変奏以降はそれまでの変奏の組み合わせであり、例えば30番は1、7、13, 19, 25番を統合している。第36変奏はそれまでのすべての変奏を合成、回想し、即興的なカデンツァを挟んで、最後にテーマが回帰する。

 この曲でさらに特筆すべきは、調設計である。調性はしばしば見えなくなるが、各曲には基本的な調性が設定されている。テーマと第1変奏はニ短調で奏されるが、第2変奏は5度上のイ短調となり、それ以降は変奏ごとに5度上の調に移り、12の短調をすべて巡っていく。第13から24変奏までは原調のニ短調に留まるが、第25から最後の36変奏までは再び5度上行のサイクルが巡ってくる。

 こうした楽曲構成、秩序だった調設定は明らかにクラシック音楽の先例に則っており、古来培われてきた伝統を彷彿とさせる。近年、ロシア出身のピアニスト、イゴール・レヴィットらが“ゴルトベルク変奏曲”とともにこの曲を取り上げているのも、大いに頷けるところであろう。作曲から45年を経て、この変奏曲はいまや〈古典〉となった感がある。