音楽とともにあった生の軌跡を伝える、ということの幸せ

齊藤聡 『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』 カンパニー社(2022)

とかく世の中は、効果を求め、競い合い、強弱が問われています。音楽も同じようです。しかし、音楽にはそれと全く違う力「弱さの力」を発揮できるのではないかと思いました。そしてそれこそいま必要なものではないか。/[中略]/拙い作曲をしていても、「あっ、良いものができたな」と直感するものがたま~にあり、それは必ずと言って良いほど評判が良い。そもそも名作というものは、人類が共有しているこの「身体」が共通して知っているのでしょう。個人のものではない。/音楽はその領域のものなのでしょう。(p.296)

 2019年5月に病没したコントラバス奏者、齋藤徹が晩年に記した文章から引いた。

 没後3年数か月で刊行された本書、感染症蔓延があったにもかかわらず、70人にこえる人たち――亡くなる直前の齋藤徹じしんにも――にはなしを聴き、こうしたかたちにするのは容易ではなかったろう。ジャズからタンゴ、沖縄や韓国、ダンスや身体、うた・声へ、ぎりぎりまで寄っていき、音・音楽をつうじてふれる、つながる、はなれる、生をおくった齋藤徹の軌跡がたどられる。軌跡とは、齋藤徹が発音した楽器、コントラバスの、〈コントラバスが描く運動体〉ゆえのさま。伝記と呼べそうでありながら、そう呼んでしまっては、軌跡を取り逃がしてしまう。だから音楽とともにあった生のみをぎりぎりに濃縮した〈軌跡〉なのだ。

 ひとつのカラダでありながら、ひとつことだけを進め、ある段階にべつに移行するわけではない。同時並行的に進んだり、いりくんだり、ねじれたりする。ことばは、こうした生は描きにくい。それでも、筆者は束になったありようを丁寧にほぐしてゆく。読み手はこの丁寧さから、逆に齋藤徹の生の複雑な束の太さ、大きさを〈感じ〉なければならない。こまかい文字と本の厚みは、その体現だ。

 多くのひと、多くの場所の名が引かれ、あらわれ、消えてゆく。ひとつひとつがそのときどきで、齋藤徹がとおっていった、とりかえのきかないものだったことを、わかりながら、読みたい。たとえばこんな文章とともに――

しかしこれには伏線があった。リサイタルの数ヶ月前の三月二五日、齋藤は横濱エアジン(神奈川県・横浜市)においてコントラバス・ソロにより〈無伴奏チェロ組曲〉ばかりを演奏した。それはガット弦ならではの響きや広い周波数域を活かした素晴らしい演奏だった。齋藤はそこでバッハと韓国シャーマン音楽との共通点を見出し、それを活かそうとして失敗したのだった。(p.226)

 テツさんとのつながりは、個人的には、さほど深いものではなかったけれど、こうした書き手を得て、つくづく、良かったな、とおもう。