ジャズ版の〈鎌倉 0n The Beach〉な一冊
本文も残り10頁程を切ってから、松谷穣が生涯唯一の音盤『Younger Than Spring』を遺している事実を知った。それくらい、彼の活動歴も名前さえも知らずに来た。広告を見て〈読みたいな〉と想った矢先の書評依頼、かつて松谷邸に〈プーさん(菊地雅章)が居候していた〉秘話も載っていると聞いては受けない理由がない。が、東京音楽学校(現・東京藝術大学)時代に、同窓の藤山一郎や松平晃の専任伴奏者だったピアニストが、(小島正雄の薦めでヴォーカル指導教室を始めるのは想定内だとしても)やがて自らも歌う愉しさに目覚め、バンマス稼業の傍ら40歳過ぎで歌手デビューしていたとは……。伝統的フェスに歌手として招かれ、ナンシー梅木(松谷が発掘した!)、ペギー葉山、笈田敏夫らと肩を並べた立派なパンフ紙上、音大の同窓作曲家がこう寄せている。〈彼の順応性も遂にここまで来たのかと恐れ入る。(略)彼の病もここまで来ては仕方がない〉と半ば呆れつつも、〈昔の悪友として成功を祈るほかない〉、と。
〈音楽は楽しいもの。いかなる音楽にも垣根はない〉とは、本書の1行目を飾る松谷の口癖だ。著者は〈やさしい性格の松谷の周りには、いつも異端で反骨精神の強い若者が集まった〉と綴る。旧制・横浜第一中学校で教鞭をとった際は、中3期の黛敏郎が手書きの処女作品『バイオリンとピアノのソナタ』を持参して意見を乞うた。松谷邸のレッスンには当時大学生の沢たまきが通い、前田美波里の初訪問時はまだ小学生だった。バンマス廃業後の〈ナベプロ〉講師時代は、布施明、太田裕美、辺見マリ、平山三紀、トワ・エ・モワらを担当。キャンディーズの3人には〈ミキはド、スーはミ、ランはソ〉と和音の基本から習わせた。知られざる裏方ぶりは彼が敬虔なクリスチャンゆえの航跡、〈道を伝えて己を伝えず〉の精神が自己顕示欲を控えさせたのでは、と著者は踏む。
ジャズ・ミュージアムちぐさ館長の著者・筒井之隆は学生時代、『ジャズ批評』創刊号に平岡正明、油井正一、植草甚一と並んで寄稿。が、〈「ジャズ至上主義者の自己愛的ジャズ論」なる青臭い評論を掲げるが、あまりの恥ずかしさに、以後、断筆する〉と、履歴に記す。であるならば自己愛変じて評伝作家として臨んだ本書は、半世紀越えの雪辱的力作といえるだろう。奥付を閉じて、サブスクで遺作を視聴した。〈なんたって、松谷さんの歌の中には人生がある。こんな「歌」は、世界中探したって、そうありゃしない〉、件のCDをプロデュースした井坂紘の賛辞だ。一曲目を聴きながら、タワレコオンラインで〈在庫わずか〉を認め、稀少な歌声集をカートに入れた。