江戸時代の食は発酵文化と渡来文化のあわいに醸され熟され
美しい料理の本が3冊届いた。「江戸の料理本に学ぶ 発酵食品でつくるシンプル養生レシピ」「四季の鍋と江戸料理」「江戸料理大全」いずれも江戸の料理を現代に伝える料理本だ。ページをめくると眼福幸福至福。多様性あふれる献立。なんせ江戸時代は長い。家康から慶喜まで260余年。料理本ブームもおこった江戸時代。家康がこだわった養生食から食の歴史を紐解く旅に出よう。さらに気になる本数冊、読んで一気にタイムスリップ。
「家康は〈麦飯〉と〈焼き味噌〉で天下をとった!」とは、食文化史研究家・永山久夫先生の言葉だ。〈麦めし〉にこだわった家康は消化のために30回は咀嚼。忍耐強さが鍛えられた。彼が好んだ豆味噌は100%大豆で強壮効果もあり。正室から側室まで17人の女性を愛し66歳まで16人の子づくりに励んだ家康。健康オタクで薬師さながら自ら薬を調合して服用するほど健康に気をつけていたはずが……京の御用商人・茶屋四郎次郎に教えられた南蛮渡来料理〈テンフラリ〉を食べ過ぎて体調悪化。激しい腹痛を起こして寝込み、3ヶ月後に天に召されてしまった。75歳まで養生してきたのに、鯛の天ぷらが命取りになってしまったとは残念無念だ。食中毒ではなく胃癌を患っていた説もあるのだが……。
かたや、家康の懐刀とも知恵袋とも言われた天台宗の僧・天海は108歳まで生きた。基本の長寿食は〈枸杞めし〉〈納豆汁〉〈ごぼうの煮物〉〈梅干し〉。天海の名言によると「長命は、粗食、正直、日湯、だらり、時折、ご下風あそばさるべし」(〈日湯〉=毎日風呂に入る〈下風〉=おなら〈だらり〉=(睾丸が縮まるような過度の緊張はしないこと)。「気は長く、勤めはかたく、色薄く、食細くして、心広かれ」。おおらか養生訓。家康にも伝わっていたのだろうか。
家康が食物繊維と発酵食を積極的に取り入れていたのは事実らしい。奈良漬をたいそう気に入り、漢方医で奈良漬け名人の糸屋宗仙を奈良から江戸屋敷に呼び寄せたほど惚れ込んだ。かくして奈良漬の産地は各地に生まれたそうな。
ここから、一気に甘い饅頭の由来に飛ぶ。そのルーツは三国時代(220年~280年)の諸葛孔明に由来あり。南方に遠征した時、大氾濫した川を前に立ち往生。49人の生贄を求められたが、「そんなことは出来ない!」と知恵を絞り饅頭49個を用意。粉を練った皮に、牛や羊の肉を刻んだものを包み込んで、人間の頭に見立てて川に捧げたら、やがて氾濫はしずまったという。そんな逸話のある饅頭を日本に伝えたのは1349年奈良に宋から渡来した僧侶・林浄因だった。お供物として肉のかわりに小豆と甘葛を煮た餡を山芋と米粉の皮でくるむ薯蕷饅頭を考案。禅宗のお茶と饅頭をいただく作法は大評判に。林浄因は奈良の漢国神社に饅頭の祖としてたたえられた。時を経て、1517年。林家の末裔、和菓子職人・林宗二は長篠の合戦に出陣する家康に〈饅頭〉を献上している。家康は、兜に饅頭を盛って軍神に供え、戦勝を祈った。林は、江戸に和菓子屋の塩瀬総本家を創業し、志ほせ饅頭が生まれた。家康は、渡来の食文化を取り入れながら、西から東まで、食のプロデューサー的な役割を果たしたのである。
さて、昔も今も精進料理に欠かせないのが豆腐だ。江戸の料理本 「豆腐百珍」(1782年)は大ベストセラー本。豆腐の献立がずらり百種類。著者名は醒狂道人何必醇。本職は篆刻師。飢饉で米不足だった世の中を救うために大阪で刊行された本はヒットし続編や余録編も刊行。ちなみに、ひりょうず(飛竜頭)は、ポルトガル菓子〈フィリョース〉が変化した説あり、アラブ菓子〈バグラヴァ〉説もあり。がんもどきは大航海時代の菓子だったのか。
そういえば、江戸の鎖国を終わらせた13代将軍・家定の趣味はカステラや饅頭づくり。奥方は、篤姫。動乱の江戸末期、ほっこりスィーツな逸話なり。
繰り返されてきた疫病の歴史。自然災害や飢饉、紛争による食の危機に直面するたびに、健康法や養生訓が生まれ、発酵食や薬膳が注目され、自然素材の甘味に癒されたのだろうか。科学や医学が進歩しても食は命の薬。先人の知恵に習って基本にかえり、免疫力を高めるための生き方と食を選びたい。
江戸時代の料理本「豆腐百珍」「料理物語」等を参考に、みそ、しょうゆ、かつお節、酢など身近な発酵食品でつくれるレシピ89品と健康づくりに役立つ発酵食品の豆知識などを紹介。
2002年神楽坂に開店した〈山さき〉は、季節の鍋と江戸料理が看板。現代の暦に合った〈今の江戸料理〉を手がけている。2007年「ミシュランガイド東京」で一つ星に選出。
八百善は享保2年(1717年)八百屋から料理茶屋を創業。四代目は料理本「江戸流行料理通」(1822年)を刊行。ペリー来航時(1854年)響応料理を担当。現在、十一代目が横浜で営業中。
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