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不思議な時間、空間

アルバムからの曲が次々と演奏されていく。250のライブスタイルは、BUDXBEATSで公開されているスタジオライブ動画と同じく、オケに対してキーボードでリード~ソロを重ねていくというシンプルな編成。煽るようなアクションはおろか、無駄な動きが一切なく(空いた手でリズムを取る程度の動作はある)直立でただただ鍵盤に向かう様子は、もはやクラフトワークのようですらある。

2021年の〈BUDXBEATS LIVE〉でのライブ動画

“Rear Window”での、グリッサンドを細かく刻んで鳴らされる歪んだリード、キーボードながらギターのような肉体性を見せるプレイ。さながらYMO版“千のナイフ”の坂本龍一のソロのような……と、感じたのは先ほどのDJのYMOタイムを筆者が引きずっているからだろうか(しかし、250の音楽的コンセプトと、細野晴臣~YMOの自虐的に〈アジア人〉を演じたビジュアル戦略とを比較するのは、今日においてかなりスリリングかつ重要なテーマが浮かび上がってくるのではないだろうか? ちなみに後日、250のインスタグラムを見ていると、来日時のオフショットと思しき写真で、レコード屋でYMOのジャケットを背景にポーズを決めているショットがアップされていた)。

一曲ごとに、今日、生まれて初めて生で向かい合ったであろう日本の聴衆たちに礼を述べ、次の曲を準備する250。客席からは「チョアチョア!」「マシッソヨ!」など筆者でも分かる言葉に混じって、より流暢な韓国語による声援も飛び交う。ステージには、カラオケで流れるような一昔前のトレンディドラマ風(おそらくは韓国の俳優たちによる)の意味ありげな映像がずっと流れている……不思議な時間、空間。

 

ポンチャックDJから伝わる真のユーモアと知性

ずっとキーボードに向かって演奏していた250がDJブースに向かい、客と真っ向に向かい合う形となる。筆者は最前線に居たので、ちょうどDOMMUNEのような、配信などでよく見る構図になった。

それまでの、1曲ごとに曲間のあるライブセットから、ここからはノンストップポンチャックDJタイムに。

アルバム未収録の、250作曲の未発表曲なのか、250が〈ディグ〉してきた既存のトラックなのかわからないが──いずれにせよ、ポンチャックのビートの、ダンスミュージックのポテンシャルに驚かされるばかりのDJだった。英米を中心に発信される、低音(ベース)のうねりを基調としたダンスミュージックに対して、アジアから提示する、中~高域の細かいリズムが〈キモ〉となるオルタナティブなダンスミュージック……。カットインで繰り出される、BPM 150以上のポンチャックビートの数々に、会場全体がギアを上げたように鳴動する。

スコ・スコ・スコ・スコ……という、宇宙まで永遠に連なるかのような裏打ちのリズムの上に、ファンカデリックの“Maggot Brain”のような泣きのギターソロが入るトラックが流れると、その曲調のセンスに筆者は思わず笑ってしまいそうになったが、250はライブパートと同じくDJ中も終始、漁師が水底の魚群を注視するような真摯な表情だ。当初、もしかして緊張しているのだろうか?と思っていたそのシリアスな顔つきも、この頃になると、いや、この楽曲の陽気さと表情のギャップこそ、彼が真のユーモリストたる証明なのかも知れない……と思い直した。タモリ曰く「異常なことをなるべく普通にやりたい」。至言だ。

いや……異常なことは何もない。250は真っ当に、自身の生まれ育った環境や気風を見つめ直し、その上で自分がやるべきオリジナルな音楽を奏でようとしているだけだ(その一方で、アメリカ仕様に洗練されたK-Pop産業のど真ん中にいる……ということを両立させている点に250の特異性はある)。そのことはインタビューやアルバム制作へのドキュメンタリー的シリーズ〈ポンを探して〉でも伺い知れるが、本人のパフォーマンスを目の前にしたことで、筆者は強く確信した。日本においてはどうしてもポンチャックというと、サブカル〜ネタ的な受容になりがちだが(単純に今や知らない、という場合の方が多いだろうが)、250の音楽性には、そういった視座よりも一回り大きなユーモアと知性が宿っている。