「鍵盤がらみを全部、50枚は行くでしょう」――『J.S.バッハ鍵盤のための作品全集』を語る
あまりにも豊穣なチェンバロの音色美と演奏者の巧みな語りくちに驚いた。フランスの鍵盤楽器(オルガン、チェンバロ、クラヴィコード)奏者、バンジャマン・アラール(1985年ルーアン生まれ)が現在進行中のJ・S・バッハ『鍵盤のための作品全集』(ハルモニアムンディ=キングインターナショナル)、2023年4 & 5月にプロヴァンス市民博物館で録音した『Vol.9 ケーテン、1717―1723~幸福なとき』は何より、ドイツ18世紀の製作者ヒエロニムス・アルブレヒト・ハス(1689-1752)が1740年にハンブルクで完成した3段鍵盤チェンバロを使用。オルガンを思わせる表現力に圧倒される。
「ワイマールからケーテンへと移った翌年に最初の妻マリア・バルバラを亡くした苦しみも踏まえ、最初はバッハの過去の思い出の象徴として、クラヴィコードでの演奏を考えました。しかし、この時期は次の時代様式へと移行する〈架け橋〉の意味を持たせる必要があり、非常に洗練され、良い音の出せる唯一無二の楽器との出会いでチェンバロにスイッチしたのです。直近までの持ち主がケチで(笑)、とても独占欲の強かった方らしく、自分以外の誰にも触らせなかった結果、レプリカではないオリジナルの楽器が非常に良い状態で保存されていたのだから、何が幸いするか分かりませんね」
Vol.9はディスク2枚組。CD 1は“半音階的幻想曲とフーガ”快刀乱麻の名演で始まり、声楽を交えた“カンタータ《裏切り者なる愛よ》”で終わる。CD 2は“《ブランデンブルク協奏曲》第5番”と“《イギリス組曲》第3 & 5番”。独奏曲や協奏曲だけでなく、室内楽、声楽など「鍵盤が関わる全作品」の録音を目指すとしており、「どれくらいの規模になりそうなの?」と尋ねると「まだまだアイデアが溢れ出る状態。着地点はまだ見えないけど、全部で50枚くらいのセットになるでしょう。ハルモニアムンディからは〈とことん全曲オーケー〉のゴーサインを取りつけています」と、涼しい顔で語る。
「ものすごい全集プロジェクト」はアラールにとって「未知の世界への探究の旅」だ。「レコーディングの度ごと良く弾き込んで臨みますが、自身の体調や気分、気温などの条件が異なることもあってか、毎回が不思議な体験です。マイクではなく人間に聴かせたいとの思いが強いので、セッションにも楽器所有者や親しい人々を招いています」