マリアンヌ・フェイスフルが死去した。

マリアンヌ・フェイスフルが亡くなったことは、英BBCニュースなどが伝えている。同局によると、「マリアンヌは今日、愛する家族に見守られながらロンドンで安らかに亡くなった」と広報担当者が声明で述べているそうだ。死因などは明らかになっていない。78歳だった。

ローリング・ストーンズのミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ロン・ウッドは、マリアンヌとキース・リチャーズの写真をInstagramに載せ、追悼コメントを発表している。

マリアンヌ・フェイスフルは1946年、英ロンドン生まれの歌手/俳優。上流階級の名家の生まれだが、6歳の時に両親が離婚。母に育てられ、貧しい生活を送ったという。

1964年からフォークを歌いはじめ、同年、ローリング・ストーンズのパーティーにジョン・ダンバーと参加したところ、マネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムと知り合った。そして、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、オールダムが作曲した“涙あふれて(As Tears Go By)”でデビューを果たす。同曲や“Come And Stay With Me”などのシングルで、シンガーとして早くも成功を収めた。

1965年にデンバーと結婚したものの、ミック・ジャガーとの交際を始め、スインギング・ロンドンのシーンを象徴するカップルになった。ビートルズ“Yellow Submarine”やローリング・ストーンズの「ロックンロール・サーカス」への参加、ストーンズの“Sympathy For The Devil”などのインスピレーション源になるなど、音楽シーンで存在感を発揮した一方、マリアンヌやマリファナやコカインの中毒に陥ってしまう。

1970年にマリアンヌとミックは破局、自殺未遂をし、その後は表立った活動が少なくなった。路上生活なども経験したが、1979年にアルバム『Broken English』をリリース、同作からシングル“The Ballad Of Lucy Jordan”がヒットするなど、キャリアを復調させた。1980年代に入ってからは、『Dangerous Acquaintances』(1981年)などのアルバムを発表したが、薬物中毒との戦いは続き、リハビリや入院を続けていた。

1990年代には、キャリアを総括するようなライブアルバム『Blazing Away』で元ザ・バンドのガース・ハドソンやドクター・ジョンらと共演、高い評価を得た作品になった。さらに、メタリカのアルバム『Reload』(1997年)に参加したり、オペラに出演したり、クルト・ヴァイルの曲などを歌った『Twentieth Century Blues』(1996年)や『The Seven Deadly Sins』(1998年)といったアルバムをリリースしたりと、旺盛な音楽活動を続けた。

その後、ダニエル・ラノワ、エミルー・ハリス、ロジャー・ウォーターズらが参加した『Vagabond Ways』(1999年)、ブラー、ベック、ビリー・コーガン、パルプらと共演した『Kissin Time』(2002年)、PJ・ハーヴェイとニック・ケイヴとコラボレーションした『Before The Poison』(2004年)といった充実作をコンスタントにリリース。最晩年の作品は、ニック・ケイヴなどが参加した『Negative Capability』(2018年)、ウォーレン・エリスと共作したスポークンワードアルバム『She Walks In Beauty』(2021年)となった。

歌手として知られるマリアンヌだが、ジャン=リュック・ゴダール監督の「メイド・イン・U.S.A.」(1966年)、ジャック・カーディフ監督の「あの胸にもういちど」(1968年)といった映画やテレビ、舞台にも出演。1990年代には俳優活動にも復帰し、ソフィア・コッポラ監督の「マリー・アントワネット」(2006年)などの映画や舞台などに出演した。

薬物やアルコールへの依存に長年悩まされ、2000年代には乳癌やC型肝炎との闘病を余儀なくされた。2020年には新型コロナイウイルス感染症に罹患し、歌手活動への復帰が危ぶまれたこともあった。

ストーンズやミックとの交際で、ファッションやビジュアルを含めて1960年代のロンドンのカルチャーを象徴する存在だったマリアンヌ。エンジェルボイスとして知られたが、ある時期からは、破滅的で浮き沈みの大きな人生を反映させたかのような低く嗄れた独特な歌声で存在感を発揮し、復帰劇を何度か繰り返しながらも、1990年代以降は自身の音楽を探求した。英国文化を代表するアイコニックな才能がこの世を去ったことの衝撃は大きい。心から哀悼の意を表したい。