マジカル・パワー・マコが死去した。
マジカル・パワー・マコが亡くなったことは自身のレーベル、Andromeda RecordsのXアカウントで発表された。2025年2月7日に亡くなったといい、死因は発表されていない。69歳だった。
【訃報】マジカル・パワー・マコ
— Andromeda Records (@AndromedaRec) February 11, 2025
マジカル・パワー・マコ(@magicalmako)さんは2025年2月7日に永眠致しましたのでご連絡差し上げます。
生前多くの皆様より賜りましたご厚情に深く感謝申し上げます。
Andromeda Recordshttps://t.co/znl7oLlfGD
マジカル・パワー・マコこと栗田誠は1956年、静岡・修善寺生まれの音楽家。小学生時代からギターやピアノなど多くの楽器に触れ、中学生時代から曲作りとテープレコーダーでの録音を始め、上京後、1971年頃から実兄と紫雲英(げんげ)というバンドで活動をスタートさせた。
1972年に現代音楽のイベント〈自由空間〉に出演、灰野敬ニとの交流が始まる。NHKの音楽を手がけるようになり、同じくNHKの「ひるのプレゼント」に灰野とともに出演。さらにNHK「音楽と私」に出演し、武満徹と知り合った。そして武満が音楽を担当した映画「化石の森」(1973年)やNHK「未来への遺産」(1974~1975年)の録音に参加したほか、映画「卑弥呼」(1974年)の音楽も担当した。
1973年に米軍ハウスに住みはじめ、自宅で音楽を制作していたという。1974年、18歳のときにポリドールからアルバム『マジカル・パワー』でデビュー。灰野らが参加した同作は、民族楽器を含む多数の楽器を操り、テープコラージュなどを駆使したサイケデリックで前衛的、実験的な作風が注目を集めた。その後も1975年の『SUPER RECORD』、1977年の『JUMP』と、ロックバンド編成での録音にシフトしながら、コンスタントにアルバムをリリースしている。
1980年頃に修善寺に戻り、バンドメンバーの吉田和正とともに制作を開始。伊豆などのライブハウスのプロデュースもおこなっていたという。1986年にはNHK局長賞受賞。斉藤由貴主演、NHK-FMのスペースファンタジー系ラジオドラマ「アディオス・ケンタウルス」の企画・作曲を務めた。
1990年代には〈宇宙人との交信〉を掲げて活動、アンダーグラウンドのアーティストとして国内外でカルト的な再評価が進み、2000年代以降も新旧世代と交流しながらライブや創作を続けていた。
マジカル・パワー・マコの訃報に接して、ヒカシューの巻上公一、タバタミツル、突然段ボールの蔦木俊二など多くの音楽家が哀悼の意を表している。
マコの訃報。ぼくは熱海彼は修善寺。誕生日も10日違い。80年代はTOSHIBAEMIでレーベルが一緒だったので、たまに会社で会った。最近は静岡の鈴木大治氏企画などで演奏。いつも近くにいた印象。69になったばかりなのに。
— 巻上公一 (@MAKIBRI) February 11, 2025
恵比寿のみるくだったか、一度だけ演奏をご一緒しました。その時はマコさんとツインギターでしたが、流れで自作曲を演奏されるので、知らないけど何となく合わせました。ベースは沢田穣治さん、キーボードが伊藤まくさん、ドラムは早稲田の学生さんでした。妙すぎるメンバーだ。御冥福をお祈りします。 https://t.co/OCJylLa7AX
— タバタミツル Mitsuru Tabata (@Tabatamitsuru) February 11, 2025
マジカル・パワー・マコが死去 https://t.co/NUctBr9MZ8 そっか
— 突然段ボール 蔦木俊二 (@lionjapan) February 11, 2025
そっかぁ~、みんな逝っちゃうなぁ。マコさんっとは色々と思い出があります。追悼です。
若くして才能を発揮し、最期まで日本のアンダーグラウンドシーンや前衛音楽を象徴する存在感を放ってきたマジカル・パワー・マコ。宅録音楽家としても先駆的な作家だった。安らかに眠ってほしい。
2025年2月12日追記
本稿の初出時、内容に一部誤りがございました。謹んでお詫びし、訂正させていただきます。 *Mikiki編集部