現代クレズマーの牽引者の来日

フランク・ロンドンが5月に来日し4都市でレクチャーと公演を行った。

 1998年、2003年にチューリッヒとベオグラードで会ったフランク・ロンドンとの東京での再会は池袋の東武デパート地下の食品売り場だった。フランクはその食品の種類の豊富さに目を輝かせ、ランチの食材を買い込み、午後に予定されている立教大学でのレクチャーの前に取材に臨んだ。遡ること14年前の2003年にベオグラードで開催された“ringring festival”に招かれたフランク・ロンドン&クレズマー・ブラス・オールスターズは、そこでセルビアのジプシー・ブラスの雄、ボバン・マルコヴィッチ・オーケスターとの圧巻のジョイントライヴを行った。この編成はブラザーフッド・オブ・ブラス(ブラスの兄弟)と命名され、アルバムもリリースし、ユダヤとジプシーの2大ブラス軍団の共演として欧米では大きな話題となった。

 フランク・ロンドンは東欧系ユダヤ人としてニューヨーク、ブルックリンで生まれ、ロングアイランドの郊外プレインビューで暮らしていた。週末にはブルックリンハイツにあった祖父母の経営するデリカテッセンを手伝いながら過ごした。そもそも年上の従兄弟、フランク・ダーロウ(Big Frankie)が吹いていたトランペットを彼(Little Frankie)も吹き始めたのがフランクとトランペットの出会いだ。フランクはトランペットとヴァイオリンを演奏するバーナード“バーニー”ショウを学生時代の彼にとって最も重要な教師の1人だと慕っている。ニューヨークでユダヤ教正統派の結婚式の演奏でバーナードと20年(’86)ぶりで一緒になり「ミスター、ショウ、お会いできて光栄です!」と挨拶すると、「なに言ってるんだ、フランク。僕らは今日、同じ舞台で演奏するんだ! バーニーって呼んでくれ」と言われたことを今も深く心に刻んでいる。実際、フランクは20代になるまではユダヤの音楽に興味はなく、もっぱらプログレ系のロックや前衛的なジャズなどを聴いていた。

 そんなフランクはボストンにあるニューイングランド音楽院(NEC)への入学(’80)によってアフロアメリカン、カリブやブラジル音楽、バルカンミュージックや劇場音楽など、新しい世界に触れた。そしてここで彼はその後の人生を大きく左右することになる次なる師、ハンクス・ネツキーと出会った。ハンクス・ネツキーは民族音楽学者であり作曲家であり、特にユダヤのクレズマー音楽に造詣の深いNECの教授だった。またジャズのインプロヴィゼーションにも通じていたことが、当時はむしろジャズに興味を持っていたフランクの心に強く響いたに違いない。彼はクレズマー・コンサーバトリー・ファウンデーション(クレズマー財団)の責任者であり、1980年にスタートしたクレツマー・コンセルバトワール・バンドの音楽監督でもあった。フランク・ロンドンはこのNECでハンクス・ネツキーから自らのルーツである東欧ユダヤのクレズマーやイディッシュの音楽についての指導を受け、ユダヤの音楽に開眼した。

 このクレツマー・コンセルバトワール・バンドを手始めにザ・クレズマティクス、ハシディック・ニューウェーブ、レ・ミゼラブル・ブラスバンド、冒頭でも触れた欧州で活動するフランク・ロンドン&クレズマー・ブラス・オールスターズなどを通じてバンドリーダーとして、そしてクレズマー音楽の継承者として、あくまでブラスバンド編成によってクレズマー・ミュージックを再現し30年間にわたって世界にクレズマーの記憶を再生し続けてきた。

 最新のフランク・ロンドンの動向として注目されるのはアストロ(Astro)-ハンガリアン・ジューイッシュ・ミュージックを掲げたグラスハウス・オーケストラの活動だ。Austro-Hungarian(オーストリア=ハンガリー帝国を皮肉った)8名の腕利きによるこのオーケストラはフランクを音楽監督に古いユダヤの楽曲とハンガリーで複雑に織りなしたユダヤとかかわるチャルダーシュやシルバ(ダンス曲)などを新しい編曲で聴かせる実験的かつ先鋭的なオーケストラである。2017年暮れにはブルックリンを訪ねアメリカにおけるジューイッシュ・ミュージックの現在を取材する予定をたてている。