7年ぶりの新作『クレッセント・ムーン』に満ちるキップ・ハンラハン的としか呼びえないもの

 キップにしては音がくぐもっているなーというのがさきほどとどいた音源を耳にした最初の印象でした。東京の空にかかる月は満月となるやいなや左下から欠けはじめました。3年ぶりの皆既月食となる今夜、空は晴れていますが、空気は冴え、予報では明日は雪なのだそう。窓は閉めきっているのに足下に冷気がしのびよる、こんなふうにシバれる日はあたたかい飲みものを用意してコタツに足をつっこみながら太陽の光が燦々と降りそそぐ南の国の音楽を聴くにかぎる――レゲエとかシマウタとかラテンとか――とか思ったりしないのは私は音楽の背景の地域性を典型にむすびつける符牒とみなさないからである。表面上の形式を記号としてとらえたくはない。たとえば地に足をつけた南方の音楽の一方に、北部の都会的な音楽があるというような古色蒼然たる南北問題の、それでも音を聴く耳にこびりついた条件反射、というより制度の内面化といったほうがいいそれを敷衍すれば、図式は西洋とそれ以外の地域の対立の構図にさしもどされる。19世紀西欧にはじまった近代的自我は個人という孤独な境界のむこうに外と他者をもとめることで、20世紀に帝国と表現の前衛を輩出したが、ポストコロニアルさえ歴史に位置づけるべきものとなった前世紀を経て、政治と経済と情報の皮膜に平坦に覆われた21世紀、地域性は世界を斑に彩る文様となった。意匠は錯綜し真正性は判然としないがしかしご心配めされるな。

 キップ・ハンラハンはそのような時代の先駆けとして80年代、ニューヨークはブロンクスの混沌とした地域性において胸いっぱいにポストパンクの空気を吸いこんだラテンコミュニティの成員としてこの世界の一隅に姿をあらわした。履歴を滔々と述べるのは本誌読者には無用の長物だろうから端折るが、アメリカン・クラーヴェというなによりも名が体をあらわすレーベルの主宰するのがキップの音楽史における最大の功績であろう。プエルトリコ、キューバ、大西洋からカリブを経由し南アメリカ大陸まで視野におさめるその活動は複数のアメリカ(アメリカス)を体現するばかりか、外にむかった視点はつねに内側に反転する可能性を秘め、コンジュアでのアラン・トゥーサンなどが象徴するニューオリンズの地場、すなわちはじまりから複数であった米国音楽のなりたちにもふれてくる。『Tango: Zero Hour』をはじめとした後期ピアソラの傑作群など、キップの辣腕と行動力なくして存在しえない作品もすくなくない。キップ自身も1981年の『Coup De Tete』以来何枚もアルバムを出しているが、出すたびに、名義こそキップだがみずから曲を書き演奏するより監修者の位置に退き(というか、階梯をあがり)いったんコンセプトをかため人選したのちは人脈に語るに任せる風情があった。というよりジャケットに写ってはいるがどの音がそのひとの音かあまりわからないひととして象徴化することで音楽を観念的に支配した、と書くと批判的にうつるが観念にふれることで身体は官能を惹起する。キップはその方法論を編み出した男であり、マイルス・デイヴィスが存在そのものでメンバーを励起したように熊のように舞台をのし歩くキップは演奏者の言語をおびきだす。他方スタジオにおけるキップはマイルスというよりテオ・マセロのハサミとなり、重ねたセッションで束になったテープから時間を切り出し楽曲にしたてあげる。そのスタイルは『クレッセント・ムーン』でも変わらない。ところがこのアルバムと『At Home In Anger』とのあいだには7年のひらきがあり、音楽をつくる環境にはみすごせない変化があった。

KIP HANRAHAN クレッセント・ムーン american clavé(2018)

 制作資金の調達に難渋したのは太っ腹な本誌編集子に一昨年だった一昨昨年だったかにご馳走になったとき、キップがアルバム制作資金集めのためクラウドファンディングをやっていると聞いたので存じあげておりました。はたして出資者にどのような特典があるかは知らないが、王道の音楽史とはいわないまでもオルタナティヴなそれにくっきりと足跡をのこすアメリカン・クラーヴェさえ音盤不況さなか財政的に逼迫せざるをえないのかと思うと少々やるせなかった。口にふくんだ酒が苦くなる。とはいえそんなことでへこたれるキップではない。というよりおそらくそのようなややこしさはキップ・ハンラハンを育んだニューヨークの濃厚に混交したコミュニティではめずらしいことではなかっただろう。それを証拠に、こうして7年ぶりの新作はぶじとどけられる。ところが7年越しといい条、前作はその3年前の『Beautiful Scars』時のセッションを再生しているので、ほぼ10年の月日が『クレッセント・ムーン』のなかには横たわっている。

 十年ひと昔。キップはすでにニューヨークをあとにしていた。ニューヨークの路地裏の匂いと陰影を体現した彼はもうそこにいない。そのことも私は仄聞していたし、『Beautiful Scars』日本盤のライナーの菊地成孔の秀抜なライナーノーツも音楽と都市との関係において示唆するところすくなかった。いわくハンラハンの音は「総て街の音だ」と。その対象を消失したとき、フィールドワーカーはどうふるまうのか、『クレッセント・ムーン』はかつて強く規定された対象と物理的のみならず時間的にも隔たった主体が踏み出す次の一歩を記録する作品としても注目に値する。それがあっての冒頭の第一印象だったのかもしれない。むろん視聴盤のCD-RはプレスしたCDに音質面では劣るし、のちにマスタリングを変更しないともかぎらない。読者のみなさんが手にするものと差異があるおそれを前提に論を進めるあやうさはさておき、それでも『クレッセント・ムーン』の音はハイファイでハイブリッドなアメリカン・クラーヴェの音像とは指向性を異にする、くぐもったと私は書いたが、そのような粒子の粗さがこのアルバムにはあると思い、資料に目をとおすと、ハンラハンは「このアルバムについてまず最初に書かなければならないのは、チューニングの話だ」という。ふつう440Hzでとる標準のイ音(キップの文章ではC=ハ音=ドの音となっているが正しくはA=イ音=ラの音だろう)を本作では432Hzでとっているという。イ音を440に定めたのは1939年のロンドン国際会議で、それまで各国ごとに調律のピッチはちがっていた。いまでも、たとえばヴァイオリンの2弦開放は442Hzでの調弦が主流なのはクラシックをたしなむ方はご存じかもしれないが、ことほどさように、ある音に対応する周波数は絶対ではない。音は平均律上に点在するのではなく可聴域外まで滑らかに推移するのだから音名は人為的な決まりごとにすぎない。ジャック・アタリによれば、フランスでは1859年に435Hzを標準音と定め、欧州の大勢を占めたが、結局アメリカで一般的だった440Hzに交渉が落着したのは「科学の抽象性への生産支配の同じ一つの喪失のまわりへの超国家的且つ超イデオロギー的収斂」(「ノイズ 音楽/貨幣/雑音」金塚貞夫訳、みすず書房。ただし旧版による)であり、つまるところ機構のヘゲモニー争いにすぎない。古いたとえで恐だがVHSとベータのどちらがビデオテープの正規規格になるかというような、DVDのリージョンコードが国ごとにちがうとか、不便だけれども決まってしまえばそういうものだと割りきるどころか、ちがいすらやがて忘却するたぐいのできごと。アタリは音楽家は権力や貨幣から切断されているようでありながら、芸術的な抽象性の探究にかまけると科学的合理性を経由した生産性に回収されてしまうと述べる。440Hzが中心だった1930年代の米国はまた来たるべき20世紀音楽産業の中心地でもあった。というよりむしろ産業の中心であったからシステムの覇権を握ったというべきか。むろん音楽家はそれに間接的に加担するにすぎないが、経済的な収益もなく、権力の象徴体系を生産するだけの音楽家にたいしてアタリは「多国籍機構の博学なミンストレル」とにべもない。

 ところが中世ヨーロッパで宮廷につかえた職業音楽家をさすミンストレルなることばも大西洋をわたった先の新大陸では別の意味に転化する。黒塗りした白人による幕間の茶番劇であるミンストレル・ショーは、20世紀初頭にヴォードヴィルがそのお株を奪い、根底にあった人種差別は1960年代の公民権運動で解消――などまったくしていないことは昨今の時事問題の数々にあきらかだが、1954年生まれのアイリッシュとジューイッシュをルーツにもち、移民の音楽の真っ只中で育ったキップの身体にはその痕跡が刻まれており組織する音楽はそれを擬態する。とはいえそれは人種の構成比率やアファーマティヴアクション的な公正さではない、すなわち手続による恢復ではなく擾乱のざわめきである。

 『クレッセント・ムーン』のジャケットはその主張を視覚化する。影絵のような無人軍用機の機影と被害者の写真のあいだには閉じた瞼のような三日月がかかる、記号はきわめて直截的であり、読みちがえようもない。一方で楽曲は、音質をのぞけば、冒頭のコンガの数小節がもうアメリカン・クラーヴェのかたちになっている。参加者も、番頭役のスティーヴ・スワローはじめ、ブランドン・ロス、アンディ・ゴンザレス、ロビー・アミーン――勝手知ったる面々の傍らに21世紀にデビュー組のJ.D.アレンがいるかと思えば、4年前鬼籍に入ったジャック・ブルースがなにくわぬ顔で味のある歌声を響かせている。フェルナド・ソンダースが歌う“We Were Not Alone”の〈For Lou and Jack〉の献辞はおそらくルー・リードとジャック・ブルースのそのひとを指すがハンラハンの音の空間では死者も生者とかわらずうろつきまわる。音楽のみならずアートは死者と生者が区別のない空間であるのはブランショの言を俟つまでもないが、ハンラハンの音楽で生と死をなかだちするのは官能である。その関係性を敷衍するなら、キップは『Coup De Tete』に収録した“India Song”の引用元である同名の映画を監督したデュラスに通じるところがあり、彼女とともに1968年5月に〈学生-作家行動委員会〉に身を投じたブランショの弁を(またしても)引くなら、彼女が共同体を、それも「愛の共同体」を志向したのとおなじように、愛と友愛の共同体を音楽の裏に背負いつづける数少ない音楽家なのではないか。私はあたりまえのことをまどろっこしくいいつのっているだろうか。音楽はもとより愛と友愛をうたってきた、とあなたはいう。そうかもしれない。そのような音楽に政治(の匂い)をもちこむことへの生理的に嫌悪をおぼえる方もおられよう。私が思うのは、キップはただ、1968年から半世紀、1990年の湾岸戦争、あるいは2001年、2003年、2011年からも遠く離れ、離れたことで忘却に加担し、基盤=システムにのっかかるのに汲々するミンストレルとしてふるまえないだけなのだ。

 むろんそれを前面に打ち出すだけではない。コンセプトは音楽を容れる場となり音楽は雄弁に語りかける。ふたたび作者の自筆ライナーノーツに戻れば、「 〈ミス〉でさえ他の音楽の〈ミス〉とは違って聴こえる」彼の組織する集団特有の場面が『クレッセント・ムーン』にはおさめてあり(とはいえキップのいうミスは一聴してそれとわかるようなものではない)、432Hzの標準音ともあいまってリラックスした、構築するというよりコラージュするのにちかいムードは近作の延長線上というより、『Exotica』以前、1980年代の諸作に通じるものがある。1983年のセカンド『Desire Develops An Edge』に収録した“All Us Working Class Boys”(これもまたジャック・ブルースに捧げた曲である)のライヴ音源をとりあげたのも、そのような連想が働いたからかもしれない、とくりかえし『クレッセント・ムーン』を聴きながら考えているうちにひと晩で欠けて満ちた月は西の空に沈んでいったのでした。

 


Kip Hanrahan(キップ・ハンラハン)
1954年ニューヨーク生まれ。プロデューサー。レーベル、アメリカン・クラーヴェを主宰し、ミュージシャンのプロデュースも含めて制作活動を行う。多民族都市ニューヨークのなかでも、ハンラハンがサウス・ブロンクスという〈権力の外〉で育った経験が作風に大きな影響を与えている。

 


寄稿者プロフィール
松村正人(Masato Matsumura)

1972年奄美生まれ。批評と編集。共編著、監修物に「捧げる 灰野敬二の世界」「山口冨士夫 天国のひまつぶし」「別冊ele-king」など。寄稿した「Agit Disco 超プロテスト・ミュージック・ガイド」(ステファン・ジェルクン編、鈴木孝弥+シンドストラン・ラヴ訳)が発売中。現在書き下ろしの新刊を準備中。