〈建築=地勢学〉的な次元で描かれる、〈貧困層〉と〈富裕層〉の奇妙でユーモラスな共存とその解体。
カンヌ国際映画祭や米国アカデミー賞の華々しき喧噪も、世界を覆うパンデミックの荒波によって記憶の彼方に追いやられ、しかし、だからこそ、このポン・ジュノによる傑作を、映画それ自体として鑑賞し直し、幅広い考察を加えるための準備や心の余裕が僕らの側で整った。本作はなぜあれほどまでのインパクトを世界の観客にもたらしたのか?
それぞれに才能が皆無とも思えないが、何をやってもなぜかうまくいかない4人から成るキム一家の暮らしぶりをブラックなユーモアを交えて描く一連の場面で映画は幕を開け、そんな彼らに転機をもたらす訪問客が現れる。大学受験で失敗を繰り返し、フリーターに甘んじる長男ギウのかつての級友で一流大学に通う男子大学生が、自分の海外留学中、富裕層であるパク家の一人娘である女子高生の家庭教師を引き継いでほしいとギウに頼むのだ。気弱そうな外見や態度とは裏腹に、意外なまでの太々しさでパク家からの信頼を得、家庭教師の職に就いたギウの手引きによる、以下の芋づる式の展開は呆気にとられるほどのスピード感だ。美的センス(?)に恵まれた長女がパク家のやや情緒不安定な一人息子の絵画療法を任されたことを皮切りに、キム家の人々が次々とパク家のパラサイト(寄生物)となることに成功する。しかし、そうした序盤の快調なテンポにやがて不意の転調が訪れるだろう。停滞や混沌の時間、亡霊が出没するねじ曲がった時間、長くて波乱に富んだ1日の始まりである……。
本作でのポン・ジュノの凄みは、〈貧困層〉と〈富裕層〉の対立を、政治やイデオロギーの次元から建築/地勢学的なそれへと還元する手腕にあり、しかもその設定はシンプルなものだ。貧しきキム家は低地のごみごみした路地の奥まった半地下のボロ家に暮らし、裕福なパク家は高台に優れたデザインの豪邸を構える。キム家の小さな窓は、半地下なのでさらに視界が狭められ、酔っ払いの男性の立小便(下半身の要素)がたびたび目撃される。他方、彼らの寄生先の豪邸には巨大な透明の壁めいた窓がはめこまれ、何ひとつ視界を遮るものなどないその窓を通して広大な芝生の庭が見渡せる。そもそも映画とは、内部(家屋)と外部(屋外)を仕切る壁に穿たれた開口部であり、〈世界〉を眺めるための装置である。だとすれば、とりわけパク家の豪邸に設置された巨大なワイド・スクリーンめいた窓と、その窓そのものに魅入られるかのようにリビングに座る人々から、ここでの窓がスクリーンの隠喩であることは明らかだろう。ポン・ジュノにとって本作は〈映画についての映画〉でもあるのだ。
共産主義という名の亡霊がヨーロッパを徘徊し、人々を恐怖に陥れる……とマルクスとエンゲルスは19世紀半ばの「共産党宣言」冒頭に書いた。そして「パラサイト」は、まるで21世紀初頭の「共産党宣言」であるかのように見えるがゆえに(ヨーロッパのみならず)世界を震撼させるのではないか。