ハウス/エレクトロ・シーンで支持を集めるDJ、BUDDHAHOUSE。彼が初のオフィシャル・ミックスCD『Private Memory』をリリースした。今回のミックスでは、スウィートなR&Bや爽快なモダン・ディスコを中心に選曲。流石のスムーズなDJミキシングで流れを作り出し、清涼感に溢れた1時間を演出している。つかの間のリゾート気分を味わえるこのミックスCDは、どこにも行けない2021年の夏にぴったりなサウンドトラックとなるはずだ。
そんな『Private Memory』のリリースを記念して、BUDDHAHOUSEにインタビュー。今回のミックスCDのコンセプトはもちろん、PARKGOLFやQrionらと過ごした札幌での青春時代から現在のクラブ・シーンに対しての問題意識まで、率直に語ってくれた。
BUDDHAHOUSE 『Private Memory』 Manhattan(2021)
コロナ禍が変えた、音楽の聴き方とDJスタイル
――昨年以降、コロナ禍でイベントが少なくなり、DJをする機会も少なくなってきたと思うんですけど、そういう状況がBUDDHAHOUSEさんに与えた影響はありますか?
「コロナ以前は、やっぱりクラブ・ミュージックをチェックすることが多かったです。毎週のようにイベントへの出演があったから、追われるようにクラブでかけるための曲を掘っていた。イベント自体がなくなったことで、〈家で聴きたい音楽〉に意識が向かいましたね。自分のnote記事〈BUDDHAHOUSE的、2020年年間ベスト集〉にも書いたんですけど、家でいちばん聴いていたのは、韓国の音楽。もともと周りのDJが韓国の音楽をかけていたので、僕は(チェックしなくて)いいかなと思ってたんですが、この機会にようやく聴きはじめました」
――なるほど。聴く音楽自体が変わったと。
「DJにも変化がありましたね。一昨年ぐらいまでは、DJではなるべくフロアライクな曲を使いたいと思っていて、ポップスやポップス寄りのものをかけることは避けてました。だけど、昨年、たくさんの配信イベントに出演したなかで、淡々とDJをするよりも、起伏が激しいプレイをしたほうが視聴者も楽しいだろうなと思って。いまは、クラブ・ミュージックに限定されない感じでやろうかなと思っています。
2012~2013年くらいかな。僕がまだ札幌に住んでいて、東京のイベントに呼ばれだした頃のDJは、J-Popでもなんでもかける、めちゃくちゃなスタイルだったんですよ。でも、最近は淡々とハウスやテクノをかけていくような感じだった。いまは、なんでもありな感じが戻ってきています」
日本語ラップに感化されラッパーへ、その後テクノDJに転身
――プロフィールによると、BUDDHAHOUSEさんは札幌出身で89年生まれ。2005年にDJをはじめたそうですね。きっかけは?
「もともと中学生のときにラッパーとして活動を始めたんです。当時は、オリコンのチャートに日本語ラップが入るようになって、ラップにハマりやすいタイミングだった。僕もスケボーをやっていた友達と〈ラップしようや〉とはじめたんです。これはもう時効だと思うんですけど、中学のときからクラブに遊びに行って、オープン・マイクでラップしていました。当時の札幌のクラブはIDチェックとかなかったし」
――昔はどのクラブも緩かったですよね(笑)。いい時代でした。
「高校1年生のときに、自分たちでパーティーを開催したんです。でも、周りはラッパーばかりで、DJが少なかったから、僕がそこでDJもやることになった。その頃、ヒップホップの12インチに入っていたインストを使ってラップしていたので、レコード自体はたくさん持ってたんですよ。〈俺、レコードは持ってるしやるよ〉みたいな感じでDJをしてみたら、自分のラップのライブより盛り上がっちゃって(笑)。それが何回か続き、Precious Hallでよくプレイしていて、僕のDJのお師匠さん的なdj ishiさんからのアドバイスもあり、ラッパーからDJに転向してという感じですね」
――最初はヒップホップのDJとしてスタートしたんですね。
「そうですね。ただ、昔の札幌はヒップヒップの人もハウスを聴く文化があったんです。だから、自分もすんなりハウスやテクノ、4つ打ちの音楽に移行していけた。THA BLUE HERBのDJ DYEさんとJUN-GOLDさんが2人でやっている〈Shop〉というイベントによく遊びに行ってたんですけど、そこでは本当にいろんなジャンルの音楽がかかっていたので、その影響はめっちゃ強いですね。僕も最初はヒップホップやブレイクビーツ、アブストラクト目当てで行ってたんですけど、全然ハウスやテクノがかかるし、〈俺もこういう感じでやりたいな〉と思った。それから自分の比重もどんどんテクノに移っていって」
――どのあたりのテクノに最初はハマったんですか?
「2006年ぐらいからハウスやテクノが選曲の中心になっていったんですけど、当時いちばんかけていたのは、クリック・ハウスと言われていたようなもの。自分が完全に4つ打ちに移行するきっかけを作ってくれたのが、札幌のweird-meddle recordです。そこは、めっちゃいいレコ屋で、本当にいろんな音楽を置いていたんです。札幌のミュージシャンで、weird-meddleで音楽センスを培ったという人は多いと思う。
僕もそこでよくレコードを買っていて、最初はアンチコン周辺のアーティストなんかをチェックしていたんですけど、店内でAOKI Takamasaさんの“D-holoc”(op. discのコンピレーション『Hub Solo & Collabo 2004-2005』に収録)という曲が流れていたんです。その曲にものすごく衝撃を受けて、すぐ〈これください〉とレジに向かった。そこからクリック・ハウスやミニマル・ハウス……アーティストで言えばリカルド・ヴィラロボスあたりの曲をDJでかけるようになった」
――そういうストイックなテクノDJ期を経て、そのあとオールミックス的なスタイルになったのがおもしろいですね。
「ベース・ミュージックとの出会いが大きかったんだと思います。weird-meddleはダブステップも仕入れていて、僕もテクノと一緒にダブステップをかけるようになったんです。そこから徐々にベース・ミュージックのDJへと移行していった。自分でもベース・ミュージック系の曲を作るようになり、SoundCloudに曲を上げていたところ、TREKKIE TRAXが見つけてくれて、彼らが東京のLOUNGE NEOで2013年の12月に開催した〈BASS GORILLA〉というイベントにDJで呼ばれ……という流れになるんです」
PARKGOLFやQrionら札幌の同世代と過ごした青春時代
――その後、フィンランドのレーベル、トップ・ビリンとTREKKIE TRAXが合同でリリースしたコンピ『Trekkie Trax Japan Vol. 1』(2014年)に楽曲“YNC”を提供します。あの曲がBUDDHAHOUSE名義で初めて発表したものになるんですか?
「そうですね、曲作り自体はDJを始めてすぐ……2006年ぐらいからやっていたんです。でも、そんなにうまくないので(笑)。あと努力するのが嫌いなんで、全然スキルも上がらなかった。ただ、札幌時代に周りいた人……PARKGOLF、Ninja Drinks Wine、DJ YEN(現Chilly Source)、Qrionが曲を作れる人だったから、〈俺も作らないと〉と思い、本腰を入れた感じでした」
――PARKGOLFさんとはいまもpodcast〈PARKGOLFとBUDDHAHOUSEの2名〉をやっていますし、盟友と言える存在なのかなと想像していました。
「パーゴルは高校の同級生なんです。でも、高校時代はめっちゃ嫌いでしたね(笑)。あいつ、授業の休み時間とかに、いつも踊り場で彼女といちゃついてたんですよ。それを見て、〈あいつイヤだな、気にくわないな〉と思っていました。だから、仲良くなったのは高校を卒業したあとですね。クラブで会って、〈ひさしぶりー〉〈実は曲作ってんだよね〉〈えー、俺も作ってるよ〉となり、それで意気投合した。
パーゴルがインターネット・レーベルにハマっていて、僕にもいろいろ教えてくれて、〈俺らもインターネットを攻めていこうや〉みたいな雰囲気になったんです。〈じゃあ、同士を集めよう〉と仲間を探し、札幌のネット・レーベル、ALTEMA RecordsからリリースしていたNinja Drinks Wineに連絡をとってみたところ、仲良くなれて。さらに、もともと現場で共演していたDJ YENくんも、当時の札幌では珍しくネット・レーベルに理解のある人で、協力してくれることになった。そのあと、やばいトラックを作っている高校生をネットで見つけ、連絡してみて会ったんです。それがQrion。〈この5人を中心にいろいろやっていこうよ〉という流れでしたね」
――そのひとつの成果が5人によるコンピレーション『VANDCAMP』(2014年)でしたよね。BUDDHAHOUSEさんらの世代が、札幌に新しい風を吹かせた面はあったのではと思います。
「札幌は、良くも悪くもあまり新しいものを受け入れないところがあるんですよね。2008年ごろ、ダブステップやベース・ミュージックが世界的に流行りはじめて、おもしろい新譜がいっぱい出ていたときでも、積極的にかけるDJはあまりいなかった。こんなに旬で新しい音楽を、なんでみんなはかけないんだろうと思っていました。クラブ自体にも保守的な傾向はあって、30代前半くらいになっても、まだ若手みたいな感じで……。いまはそうでもないと思うんですけど、2010年前後とかはそういうムードだったから、〈自分たちでやってくしかないじゃん〉みたいな気持ちはありましたね」
――じゃあ、みなさんのやってきたことが札幌の風潮を少なからず変えたとも言える?
「個人的には、若い人たちがやりやすいような土台を作れたんじゃないかなぁとは思っていますね。ただ、Resident Advisorに札幌のシーンを紹介する記事が掲載されたとき、僕らのことは何も書かれていなかったので、世の中的には何もなかったことになっているのかもしれない(笑)。ただ、現在は、TomokiくんというCYKのパーティーに出たり都内でも活躍している20代半ばくらいのDJが、Precious Hallに出演していたりもするので、昔とは変わっているんだと思いますけどね」
――その後、BUDDHAHOUSEさんは2016年に上京されるわけですが、何かきっかけはあったんでしょうか?
「秋葉原のクラブ、MOGRAに頻繁に呼ばれることになったのは大きいですね。もともと店長の山田(将行、D-YAMA/ちょろやま)さんが札幌のSound Lab moleでDJをしたときに、僕も出演していて、それで気に入ってもらえて。で、MOGRAは当時からユースト(Ustream)の配信をしていたから、全国各地の人が僕のDJを観てくれたことで、ほかの地方にも呼ばれるようになった。それで道外でDJをすることが多くなり、東京に出てきた感じです」