Photo by Shimbo Yuki

2023年11月26日、チバユウスケがこの世を去った。今年4月、食道がんと診断されたことを受け治療に専念するため休養を発表していたチバだが、最期は家族に見守られながら穏やかに息を引き取ったという。

Mikikiでは、長きにわたりチバユウスケに取材を行い、その姿を目にしてきたライターの長谷川誠にチバについてのテキストを寄稿してもらった。読む前に理解しておいてほしいが、これは追悼文ではない。その功績をたたえる記事でもない。あくまで1人の男から見たチバユウスケの姿、ただそれだけが記されている。ぜひ熟読してもらいたい。 *Mikiki編集部


 

チバユウスケとの出会い

チバユウスケは愛をシャウトで表現できる、類まれなミュージシャンだった。なぜ愛を叫び声で表現するかというと、愛とは甘ったるいものでも、たやすく成立するものでもないからだ。自らのすべてを賭け、渾身の力を振り絞り、真摯に対峙することで、初めて愛の本質に肉薄できることを、彼は奏でる音楽によって示していた。

THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのライブを初めて観たのは、1996年1月19日、渋谷CLUB QUATTROだ。デビューシングル“世界の終わり”のリリース日が2週間後の2月1日に控えており、そのプロモーションも兼ねてのコンベンションライブであったため、音楽関係者が数多く詰めかけていた。終演後のメンバーによる挨拶で、チバは関係者たちを前にして、「日本の音楽シーンをダメにしたのはお前らだ」と言い放った。これからデビューする新人とは思えない大胆不敵な発言だ。

目つきは悪く、態度はふてぶてしく、発言は不遜だった。だが、嫌な感じがしなかったのは、率直で嘘がないから、そして彼らの演奏に衝撃を受けたからだろう。なぜかはわからないが、彼ら4人に好感を抱いてしまったのだ。THEE MICHELLE GUN ELEPHANTはまぎれもなく発明だった。パブロック、パンク、ガレージなどの影響を多大に受けつつも、チバが詞を書き、4人で音を奏でることで、ロックンロールの魔法がかかり、とてつもない化学変化が起こった。個性の融合という生易しい表現では追いつかない。硬い石同士が激しくぶつかり合う時の火花みたいなもの、それがTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの音楽だった。

1996年のデビュー後からバンド解散の2003年までの8年弱の間で、彼らのステージを数多く観ることができた。国内は北海道から鹿児島まで、フジロックやライジングサンなどのフェスやイベントなど、海外ではロンドン、ニューヨーク、ロサンゼルスなどにも行った。サンフランシスコのライブハウスで、彼らの演奏する“CISCO〜想い出のサンフランシスコ(She’s gone)”を観られたのは、ちょっとした自慢だ。現地の観客が「CISCO!」とシャウトする光景は最高だった。

海外でのライブは、トラブルがつきまとった。PAやマイクなどの設備が整っていない会場もたくさんあったからだ。だが、トラブルを乗り越える魔法の言葉となったのは、チバの「なんとかなるよ。やろう」という言葉だった。チバの言葉には、みんなを安心させ、そして一つにする力があった。スタッフでもメンバーでもない自分も、そうか、なんとかなるんだなと感じたことを覚えている。

ツアーに同行した時には、だいたい開演の30分前まで、楽屋の中にいることを許可してくれたので、ステージにのぞむ彼らの様子を知ることができた。チバで印象的だったのは、歌詞の確認のためか、自作CDの歌詞カードをよく見ていたことだ。何やら真剣に読んでいるので、のぞきこむと、だいたい歌詞カードだった。そのたびに、チバは右手を軽く振って、シッシッと追い払うポーズをする。そのポーズを見るのがおもしろくて、何度ものぞきこんだものだ。

チバがステージに向かう姿勢はストイックそのものだった。チバだけでなく、アベもウエノもクハラもストイックの塊みたいだった。ステージの袖で見ていると、クハラ、ウエノ、アベが出るタイミングも、チバが指示を出していた。ライブ全体をトータルでプロデュースする役割も、チバが担っていたのだろう。どんな大きなところでも、小さいところでも、国内でも海外でも、彼らは持てる力のすべてを投入して演奏していた。ライブが終わると、いつも気が抜けたような、スッキリしたような笑顔を浮かべながら、チバがビールを飲んでいる姿が印象的だった。あれだけ激しいステージの興奮を鎮めるためには、アルコールは不可欠だったのだろう。

インタビュー取材もたくさん行った。THEE MICHELLE GUN ELEPHANT時代には、多い時は毎月のようにチバやメンバーに会って取材していた。ROSSO、The Birthdayになってからは、取材の頻度は減ったものの、変わらず、その存在を強く意識するミュージシャンであり続けた。取材時のチバは饒舌ではなく、可能な限り短い言葉で説明することが多かった。例えば、アルバムタイトルについて聞くと、だいたい「なんとなく響きで」「趣味で」「思いついたから」「かっこいいから」くらいしか、言葉が返ってこないことが多かった。取材時の発言だけでなく、MCも短めだったが、いちいちかっこ良かった。例えば、1997年2月11日、12日と2日間にわたって新宿リキッドルームでライブが行われた時のこと。2日目にチバが「新宿、久しぶり~!」と挨拶すると、観客から「エーッ!」と声があがった。すかさず返したチバの言葉は「昨日のことはもう忘れたよ」。

 

尋常ではないほどの音楽好き

自作の時とは違って、他のアーティストの音楽について語る時は、チバの言葉数や語彙が増えた。THEE MICHELLE GUN ELEPHANTが影響を受けた数多くのバンドの中で、一つだけ挙げるとするならば、おそらくドクター・フィールグッドになるだろう。個人的にも大好きなバンドだったので、ドクター・フィールグッドについて、チバと話すのは楽しい時間だった。「どういうところが好きか」という話になった時に、チバが「韋駄天みたいなところ」と語った言葉遣いは忘れられない。ちなみにステージ衣装のスーツのイメージも「韋駄天」と語っていたこともある。〈韋駄天〉を勝手に解釈すると、「タイトでシャープでスピーディーで、かっ飛んでいる」といったところだろうか。ドクター・フィールグッドのもっとも好きなアルバムは、珍しく意見が一致して、1stアルバム『Down By The Jetty』(1975年)だった。

取材でチバと接して感じるのは、ともかく音楽好きということだ。ミュージシャンなんだから当たり前だと思うかもしれないが、作り手としてだけでなく、聴き手としても、その好きの度合いが尋常ではないのだ。レコードマニアで、ツアーで国内海外問わず、いろいろな街に行くと、レコード屋巡りをしていた。そして収集するだけでなく、ともかくいろいろなバンドをよく聴いていた。

チバから取材時などに教えてもらって聴くようになったバンドもいくつかあった。例えば、北アイルランド、ベルファスト出身のパンクバンド、スティッフ・リトル・フィンガーズ。当時はサブスクなんてないから、チバの言うバンド名をメモして、CDショップで探して買って聴くのだ。「良かったよ。特に2ndアルバム『Nobody’s Heroes』(1980年)がいいよね」と言うと、「だろ」とうれしそうな顔をした。『Nobody’s Heroes』にはスペシャルズのカバー曲“Doesn’t Make It Alright”が入っている。「スカを好きになるきっかけの曲の一つ」とチバが語っていた。ちなみにスティッフ・リトル・フィンガーズには“Johnny Was”“Bloody Sunday”などの曲がある。チバ本人には確認したことはないが、“ダニー・ゴー”や“ジプシー・サンディー”などの曲名のヒントになっていたかもしれない。

アメリカはテキサス州、ダラスのサイコビリーバンド、レヴァレンド・ホートン・ヒートの4thアルバム『It’s Martini Time』も、チバのおすすめで聴いたアルバムだった。1980年代末から活動しているバンドだが、この作品は1996年発表だから、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTと同時代のバンドと言えなくもない。「妖しげなバーの箱バン風で、アルコール濃度の高そうなサイコビリーバンドですね」と感想を言うと、「そこがいいんだよ。ギターの音色がいいんだわ」とのこと。THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの初期の作品は、ブリティッシュ色が強かった。しかし、『GEAR BLUES』(1998年)あたりから、アメリカのガレージ、サイコビリー、オルタナティブなどの要素もミックスされるようになってきたのは、リスナーとしてのチバの趣味を反映しているところもありそうだ。

 

チバユウスケというミュージシャンの素晴らしさ

取材で音楽について教えてもらうことが多かったが、こちらも音楽の仕事をしているのだから、たまには、チバが興味を持つ音楽情報を提供したいと思っていた。2000年9月リリースの12枚目のシングル“Baby Stardust”のジャケットを観た瞬間に、その時がやってきたと意気込んだのを覚えている。ピンク・フロイドの1stアルバム『夜明けの口笛吹き』(1967年/原題:The Piper At The Gates Of Dawn)のジャケットのパロディになっていたからだ。もともと筆者はプログレオタクであり、ピンク・フロイド初期に在籍していたシド・バレットはフェイバリットミュージシャンの1人だったため、シド・バレットの知られざる逸話などを語ろうと思ったのだ。

取材時に、その話をしようとすると、チバが「オレ、プログレはまったく通っていないんだよね」と言う。シド・バレットの素晴らしさを少しだけ力説し、「プログレだからといって、大仰なわけではない」と、ついでにキング・クリムゾンの5枚目から7枚目までのアルバムについて、つい熱弁してしまった。「長谷川さんがそう言うなら、聴いてみようかな」とチバは言ったけれど、正直なタイプですぐ顔に出るので、その表情を見ると、聴く気がないことがわかった。もちろんその後、「聴いた?」などとヤボな質問はしていない。チバの好む曲は、激しい曲調でもどこかにポップでキャッチーな要素が入っている。それは、60年代のドーナツ盤が好きだったからなのだろう。

チバユウスケというミュージシャンの素晴らしさは、シンガー、ギタリスト、ソングライターとしての才能の他に、自分のいいと思うものをとことん追求する意志と姿勢、いいものを見分けるセンスが卓越している点にもあると思っている。強い意志といい耳と柔軟な感性とリスナーとしての多くの蓄積が大きな武器になっているのだ。以前、〈バンドの成長・進化〉について、質問したことがある。チバの答えはきわめてシンプルであり、そして納得のいくものだった。要約し、断片的な言葉をつなげていくと、こんな内容だ。

「成長とか進化とか考えて、音楽を作ったことはない。その時に自分がいいと思った音楽をやるだけ。変化なんか考えなくても、自分が去年聴いていた音楽と今年聴いている音楽は違うし、自分の気分も日々変わっているんだから、その時にやりたいことをやれば、自然に新しい音になるんだよ」

おそらくインタビューされることはあまり好きではなかったと思うのだが、こちらの質問に苦笑いすることはあっても、文句を言うことはなかった。記事として掲載された文章に関しても、「音楽は聴く人間がどう感じるかだから、思ったままに好きに書けばいいよ」といつも言ってくれた。ステージでの激しいシャウトやパフォーマンスとはギャップがあるが、本来、優しい性格の持ち主だった。こだわることには徹底的にこだわるが、どうでもいいことは、本当にどうでもいいタイプ。大らかで、懐が深くて、面倒くさがりでもあった。取材時には、鼻で笑ったり、苦笑したりすることも多々あったが、どんな笑顔も魅力的だった。誰もが好きにならずにいられない、素朴さや人懐っこさも備えていた。

 

インタビュー時のしたたかな作戦

チバにインタビューする時は、話がはずまない可能性は少なくないので、話の糸口を作るために、こちらが作品の感想をいろいろと述べることがある。そうすると、チバは「それで?」「どうしてそう感じたわけ?」「なるほど。で?」と、こちらの言葉に反応してくることが結構あった。しかし、これはこちらの感想に興味を持っているわけではなくて、自分の話す時間をできるだけ短くしたいというチバのしたたかな作戦だったのだろう。

「このイントロからリフの流れ、僕がティーンエイジャーの女子だったら、キャーキャー叫んで、失神していますよ」と言うと、「あのさぁ、悪いんだけど、気持ち悪い例え、やめてくれる」と言われたりした。たまにはもう少しマシな反応をすることもあった。例えば、The Birthdayになってからのこと、7枚目のアルバム『COME TOGETHER』(2014年)について、いつもどおり、まずこちらの感想を述べた。

「音や曲調はまったく違うんだけど、アルバム全体からドアーズの音楽に共通する精神性を感じました」
「それってどういうこと?」
「聴き手の意識の覚醒を促すような感じ」
「ふーん。でもドアーズってのは鋭いかもしれない。曲作りをしている間、ドアーズばっかり聴いてた時期があったわ。今の話を聞いて思い出した。へぇー、そう感じたんだ」

と、それなりに反応があった。そうした前フリをきっかけとして、いつもよりは多少インタビューがうまくいくこともあったような気がする。

 

チバユウスケが口にした〈いろいろ〉

近年のチバユウスケについて、ずっと聞いてみたいと思っている〈謎〉が一つある。それは、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT、ROSSO、The Birthdayと、彼の作る曲がどんどん希望を描く方向にシフトしてきていることだ。パンクロックとは〈ノーフューチャー〉が基本の音楽である。ノーフューチャーとは、先のことを考えず、瞬間瞬間に完全燃焼していく姿勢を象徴する言葉だ。だが、近年のチバの作る歌は、ノーフューチャーとは違った地平にあった。例えば、2018年にシングルとしてリリースされた“青空”。この曲の中には〈悲しみはもう 捨てていいよ〉は〈お前の未来は きっと青空だって 言ってやるよ〉などのフレーズがある。これは未来への希望を提示する歌とも解釈できるだろう。

以前、この謎について、「希望や愛を描いた歌が増えていると感じますが、この変化はどこから来ているのでしょうか?」とチバに質問したことがある。その時に返ってきた答えは、たったの6文字だった。

「いろいろだよ」
「いろいろって?」
「いろいろは、いろいろだよ」

その〈いろいろ〉の中身とは、戦火、災害、個人的な人生経験などが該当するだろうか。いつか機会があったら、その〈いろいろ〉の中身をもう少し掘り下げて聞いてみたいと考えていた。

謎は謎のまま、残しておいた方がいいこともある。2005年に「WITH THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」というドキュメント本を出したことがある。「R&R NEWSMAKER」という雑誌で行った、デビューから解散前までのインタビューやライブ取材をまとめた本だ。しかし、この本ではバンド解散の理由については、ほぼふれていない。それには理由がある。チバが「この4人でやれることはやりきった」と語っていたことがすべてだと思ったからだ。バンドは生き物にも似ていて、それぞれに寿命がある。もちろん延命装置を付けるようにすれば、その命を延ばすことはできるだろう。だが、彼らは自然のままに、流れ星のように、輝きながら燃え尽きていくように、終わっていった。まだまだやれるのではないか。惜しむ気持ちは、すぐには消えなかった。だが、メンバーのほうが100万倍以上、そうした思いを抱きながら、決断をしたはずだ。

その後の彼らの活動を見ると、解散が必然だったことも納得できた。「この4人でやれることはやりきった」というチバの言葉に付け加えるべきことはない。もちろんスタッフなど周囲の人間の証言をまとめていけば、バンドが終焉を迎える葛藤や苦悩をドラマティックに浮き彫りにすることもできたかもしれない。だが、流れ星のようにきらめき、暗闇の中に消えていったというストーリーのほうが、当時の自分にはしっくりきたのだ。

この本での大きな後悔は、表紙を真っ黒にしたこと。THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの音楽作品の多くは、さまざまなアーティストのデザインを引用している。『WITH THEE MICHELLE GUN ELEPHANT』のデザインは、ビートルズの2ndアルバム『With The Beatles』(1963年)のジャケットを意識したものだった。当時、チバに「遺影っぽくない?」と言われたことがある。そのことを思い出すと、アベフトシのことも含めて、やりきれない気分になってしまう。ビートルズならば、イラストにはなるが『Revolver』(1966年)あたりにしておけば良かったかもしれない。『WITH THEE MICHELLE GUN ELEPHANT』の後書きで、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのことを、自分にとっての学校と書いたことがある。チバはその音楽学校の教師の1人。無愛想な教師だが、実は心優しい人物という〈教師あるある〉みたいなタイプだ。

 

体の中で鳴り響くチバユウスケの音楽

チバの歌声を最後に聴いたのは、2022年12月8日の中野サンプラザでのThe Birthdayのライブだ。“トランペット”で始まり、“COME TOGETHER”“BECAUSE”“声”“スカイブルー”など、愛にあふれる曲が目立っていた。「高円寺は隣の駅だ!」というMCに続いて、個人的に大好きな曲“あの娘のスーツケース”が演奏されたのがうれしかった。“DIABLO ~HASHIKA~”など、バンドの新境地と言いたくなる曲もたくさん演奏された。本編最後の“ブラックバードカタルシス”では、バンドの奏でる音色の美しさとせつなさに胸が震えた。〈燃え尽きたかい〉〈燃やし尽くしたよ〉というチバの歌声にしびれた。このバンドは一体どこまでいくのか。そう感じたことを覚えている。しかし、The Birthdayは解散することなく、永遠の存在となってしまった。

チバの音楽とライブにふれ、取材を行い、たくさんの無形のものをもらった。感謝の言葉は尽きない。チバが残した音楽は、自分の糧や指針となり、いつまでも体の中で鳴り響いている。頭の中にある蛇口がいかれてしまっているから、外で聴くのはまだ危険だ。あのディストーションがかかったような独特の声を聴きたくなった時、とびっきりの愛の歌が聴きたくなった時には、暗がりの部屋の中で、大きなヘッドフォンを装着して、窓の外で輝く星を見つけながら、大音量でガンガン聴こう。そしてティーンエイジャーの女子の気分で、キャーキャー(心の中で思う存分)叫んで、踊りまくろう。「気持ち悪い」と言われたって、全然平気だ。