Page 2 / 4 1ページ目から読む

電子音楽、ノイズ、即興

――電子音楽に興味を抱いたのはどのようなきっかけでしたか?

「やっぱり、ゼロ年代当時、オウテカとかフェネスとかがものすごく流行っていて。その手の先端的なエレクトロニカが面白かった時代なんですよね。特にオヴァルは衝撃で、ものすごく影響を受けました。ジャンクのようなもので美しい音楽が作れるのはすごいなと。オヴァルを聴いた時に、こういう音楽をやりたいなと思ったんです。当時20代半ばだったんですけど、Max/MSPの本を読み漁って、エフェクトや独自のシステムのシーケンサーを作ったりしました。

ノイズライブみたいなことにも精力的に取り組んでいましたね。大友良英さんの影響で梅田哲也さんの存在を知って、筒状の装置でフィードバックの柔らかい音を出すパフォーマンスを観た時にすごく感動したことがあったんですよ。これは聴いたことがないなと。じゃあ僕はどうアプローチできるだろうと考えて、鍵盤ハーモニカの中にピンマイクを内蔵して、パソコンのスピーカーでフィードバックさせて演奏するというライブをやっていました。

当時僕はTRITONというシンセサイザーをずっと使い込んでいたんです。何年かして壊れてきて、カバーを開けたら電子回路が出てきたので、ピンセットを入れたことがあって。感電しそうになったんですけど(笑)、そしたら聴いたことがないシンセサイザーの音が出てきたんですよね。シンセサイザーって基本的にデジタルだから、アナログなエラーは起き得ない。リミッターが外れることがないんです。けれど電気回路を直接いじったらリミッターが外れて、その時は〈これだ!〉とアツくなりましたね。それとMax/MSPプログラミングを組み合わせて作品を作っていこうと思って。

それで音源を用意して、ずっと好きだったクリストファー・ウィリッツさんに送ったら、〈ちょうど新しくレーベルを始めるから、そこから出さないか?〉と言われて。僕にとって最初の作品として、2009年にOverlapから『TRITONOMICS』というEPを出しました」

2009年のEP『TRITONOMICS』

――中村さんは即興音楽のイベント企画もされていましたよね。即興的/実験的なパフォーマンスから、そうではない現在の方向へと変化したのはなぜだったのでしょう?

「今も一緒に活動しているチェリストの穴田貴也さんと出会ってから変わりましたね。面白い活動をされている方で、最初はネットで僕がナンパしたんですよ(笑)。穴田さんはクラシックの世界でバリバリに活動されているんですが、『ファイナルファンタジー』シリーズの作曲家で有名な植松伸夫さんのレーベルにもいて、でも講師業にもとても力を入れておられました。

それまでは先生なんて馬鹿にしていたんですが(笑)、穴田さんの熱い姿を見て、この人はめちゃくちゃカッコいいなと思った。ちょうど僕も30歳を超えた頃で、お金も稼がなければならなくて。それで講師の仕事をやり始めました。12~13年前です。かつては自分の電子音楽がこの世で最もカッコよくて、『TRITONOMICS』も絶対に売れると思っていたんです。今振り返ると、クオリティの良し悪しはともかく、やっぱり売れる類の音楽ではない(笑)」

 

作曲は即興を遅く行うだけ

――同時期にサックス奏者の宇津木紘一さんとユニット〈UN.a〉も始動しています。

「某専門学校で教えるようになってから、学生との距離感を意識し始めたんですね。やっぱり、学生たちにも良いと言われるようなものを作らなきゃ、と思って。つまり、ある種のキャッチーさを意識するようになったというか。R&Bとか、ロバート・グラスパー的なジャズとか、流行りモノを取り入れるセンスが大事だなと。それでUN.aでは歌モノに取り組みました。一番影響が大きかったのは東京ザヴィヌルバッハですけどね」

UN.aの2015年作『Intersecting』収録曲“COLOR”

――実験的な即興にどっぷりと浸かったからこそ見えてきた方向性と言えばいいでしょうか?

「ただ、もともと即興だけというのは好きじゃなかったんですよ。作曲的なものが入っているというか、何か意味がある即興でないといけないと思っていた。だからダラダラと続ける即興のイベントは嫌いなんです。僕が大好きなピアソラも即興にめちゃくちゃ厳しくて、ヘタに即興演奏するとすごく怒るらしい。

それに作曲と即興って要するに速度の問題で、作曲というのは即興を遅く行うだけですからね。なので即興は逃げ道にもしやすい。特にジャンル化すると逃げ道になってしまうところが大いにある」