ジェームス・チャンスが死去した。71歳だった。
ジェームスの公式サイトによれば、彼は米ニューヨークのテレンス・カーディナル・クック・ヘルス・ケア・センターで息を引き取ったそうだ。死因は明らかにされていないが、健康状態は数年前から悪化していたという。
ジェームス・チャンス(本名:ジェームス・アラン・ジークフリート)は、1953年4月20日、米ウィスコンシン州ミルウォーキー生まれ。カトリック系の小学校で修道女による指導のもとピアノを始め、18歳になるとアルトサックスを手に取る。ミシガン州立大学とウィスコンシン音楽院に通ったが、学位を取得できず退学。この間、ジェームスはジャズ志向の強いジェームス・ジークフリード・クインテット、ストゥージズの影響を受けたデスという2つのバンドを結成していた。
デスの解散後、ジェームスは1975年にニューヨークへと移住し、現在まで知られるジェームス・チャンス名義での活動をスタートさせる。リディア・ランチ率いるティーンエイジ・ジーザス&ザ・ジャークスに参加し、1977年から短い期間ながらサックス奏者のデヴィッド・マレイに師事したのち、コントーションズを結成。1978年にはブライアン・イーノがプロデューサーを務め、ティーンエイジ・ジーザス&ザ・ジャークス、アート・リンゼイを擁するDNA、マーズ、そしてコントーションズの4組がそれぞれ4曲ずつを持ち寄ったコンピレーションアルバム『No New York』がリリースされた。
『No New York』は、1970年代末にニューヨークのアンダーグラウンドシーンを中心に巻き起こったムーブメント〈ノーウェイヴ〉を音楽で体現した重要作として広く知られていく。このコンピレーションを一つの転機にジェームスはノーウェイヴを代表するカリスマ的な存在として認知されていった。
1979年、メンバー変更などを経てコントーションズとしてアルバム『Buy』をZEレコードより発表。同年にはジェームス・ホワイト&ザ・ブラックス名義でアルバム『Off White』もリリースした。
コントーションズ解散後はパリへと移住し、1983年にジェームス・ホワイト・フレイミング・デモニックス名義で『James White’s Flaming Demonics』をリリースするなど作品を残すも、ドラッグをはじめとした個人的な問題などにより表舞台から退いていった(この間もチェット・ベイカーのトリビュート盤、ブロンディのアルバムに参加するなど活動は継続していた)。
時を経て2001年、ジェームスはオリジナルメンバーらとコントーションズを期間限定で再結成し、2003年にはロサンゼルスの大型フェス〈All Tomorrow’s Parties〉に出演するなど、音楽シーンに復帰した。
2005年にはジェームス・チャンス&ザ・コントーションズでの初来日公演が実現。2010年のジャパンツアーにはフリクションが帯同し、大きな話題となった(フリクションのレック、元メンバーのチコ・ヒゲはコントーションズの初期メンバーでもあった)。その後、2016年にも来日公演を行い、多くのリスナーが伝説を目撃した。
攻撃性の強いニューヨークパンクにファンクやフリージャズの要素を加え、独自の表現を確立したジェームス・チャンス。彼とコントーションズ、そしてノーウェイヴの隆盛が後世に与えた影響は、現在の音楽シーンのいたるところに色濃く残っている。
ジェームス・チャンスがこの世を旅立っても、今後も彼のフォロワーは生まれ続けていくだろう。忌野清志郎らを筆頭に、多くの日本人ミュージシャンにも影響を与えたジェームス・チャンス、今は彼の死を静かに受け止めたい。