選ばれた作品をどういう年齢で、どのような演奏をしたのか? 改めて聴くことでわかる録音の意味

 カトリーヌ・コラール(1947-1993)の短い生涯にのこされた録音(Erato、EMI、Virgin Classics)が7枚組でリリースされた。

CATHERINE COLLARD 『エラート、旧EMIクラシックス、ヴァージン・クラシックス録音全集』 Erato(2024)

 3枚がカトリーヌ・クルトワのヴァイオリンとの共演。シューマンの第1と第2、フランクとルクー、プロコフィエフの第1と第2、ヴァイオリンとピアノのためのソナタを収録。1枚が、ヤノフスキ指揮とのダンディ“フランスの山人の歌による交響曲”、アンヌ・ケフェレックとのサティ“梨のかたちをした3つの小品”“風変わりな美女”。ソロは3枚のみ。どれもシューマン。第1ソナタと“子どもの情景”。第2ソナタと“蝶々”“3つのロマンス”“アラベスク”。“幻想曲”と“ダヴィッド同盟舞曲集”。

 選曲をとおしてピアニストの志向性が。おなじシューマンでも“謝肉祭”“クライスレリアーナ”ではない。個々のアルバムの重心は(かたちとしての)〈ソナタ〉にある。録音は1970年代、晩年のロラン・バルトが「シューマンを愛する」という文章を記した時代でもあった(マルセル・ボーフィス「シューマンのピアノ音楽」への序文として)。短いシューマン論でバルトは、作曲家の断片性、メリーゴーランドのように変わってゆくスタイルへの好みを示した。コラールはむしろ反対。イヴ・ナットの演奏を評価したバルトからは、シューマンの〈ソナタ(的なるもの)〉への志向は相いれないものだったか。さらにいえば、このごろの若い女性ピアニストは!と、いらっとしたのがコラール演奏だったかも、なんて想像するは如何。

 シューマンのピアノ・ソロも、ヴァイオリンとの二重奏も、派手な演奏とはいえない。演奏=解釈の新しさ、奇抜さが売りではない。ふつうに破綻のない演奏のなか、ところどころに、発見が、大きいものではないにしろ驚きが、また、どことなく不器用な真摯さがある。

 ひとりの演奏家がある時代、どういう年齢で、どんな演奏をしたのか。しばらく経ってからあらためて聴きなおしてみることで感じられること、わかってくることは、すくなくない。録音の意味はそんなところにもある。