
絶対零度など大熊ワタルの音楽活動
――大熊さんの音楽活動はソロから始まり、その後に絶対零度を始めたんでしたっけ?
大熊「いや、絶対零度が最初。絶対零度は上智大学内のバンドとして始まって。言い出しっぺの上級生が裸のラリーズや灰野さんが好きで、自分たちなりに新しいことをやろうとしてた」

Photo by 地引雄一

――ルシフェリン・ルシフェラーゼ(1980年秋の1回限りのプロジェクト)はその後ですか?
大熊「少し後。1979年末に絶対零度を始めてすぐ、広瀬が僕に〈シンセとか変な音だけのユニットもやったら?〉と言い出して、1980年に広瀬と僕が始めたのが闇射。絶対零度はドラムとベースがいる普通の編成だけど、変なところだけ抽出した訳の分からないことをやりたくて。闇射は1980年の春頃から何度かライブやりつつ、1年くらいで終わりましたね。
ルシフェリンは、1980年9月にマイナーの〈十時劇場〉で朗読の女の子と一度だけやったプロジェクトでした」
――そして、1980年の秋に吉祥寺マイナーは閉店します。
大熊「1980年の9月末。だから、ルシフェリンのライブは終了間際だった」
園原「マングースもギリギリだ」
巣山「マイナーにはそんなに出てないね」
大熊「絶対零度は半年の間にマイナーで10回以上やったよ。最初の頃はホント入り浸ってて、毎週のように出てた時期もあった」

Photo by 地引雄一
INUらが登場した関西パンクの熱気
大熊「でもマイナーは狭いし、同じような人ばかりがいたから、だんだんロフトとかで町田(町蔵/康)君のバンドなんかと対バンするようになった。INUがブレイクする直前だね」
巣山「関西からすごいバンドが来るっていってね」
園原「関西のバンドはどれもかっこよかった」
――アーント・サリーとか。
園原「変身キリンとか」
大熊「ドッキリ・レコードのツアーがあったよね。(それとは別に)だててんりゅうのことも覚えてる」
園原「東京のパンク系バンドをかっこいいと思ったことはほとんどなかったけど、INUは〈絶対に本物じゃん、ずば抜けてる〉と思った」

ダブや編集など宅録で没頭した音楽実験
大熊「マングースに話を戻すと、〈バンドバンド〉した感じじゃないユニットになりつつあったの?」
園原「その頃に4トラ(ック)やオープンリールのレコーダーを導入して、ダブをやってみたりしてた」
巣山「ライブを何回かやるごとにメンバーが変わってたのかな?」
大熊「実演メインというより、スタジオで録った素材を宅録的にどんどん加工してた?」
園原「そう。そっちに興味を持ったんだよね」
巣山「ライブでもエフェクターをくっつけてダブ処理したり、エコーを掛けたり。ドラムにエフェクトを掛けるのが好きで、よくディレイで飛ばしてたね」
大熊「あの頃はリー・ペリーやOn-Uサウンド辺りの作品を聴きまくってたよね」
園原「ダブにはまっちゃってね。思い出したけど、林業高校で木工の時間にボンドの量が多すぎてイってしまったことがあって。カラフルな光が目の中に飛び込んでくるんですよ。ダブを作る時にそれを思い出してた(笑)」
大熊「PIL(パブリック・イメージ・リミテッド)とかも聴いてた?」
園原「関係あるね。PILに関してすごいと思ったのは……」
巣山「重厚なベースとバスドラだね」
園原「あとハイハット」
大熊「そういうサウンドプロデュース的な感覚で聴いてたね」
園原「要するに、音そのものが好きになった。〈良い曲〉っていうより〈良いサウンド〉の方にいっちゃった」
大熊「〈プロフェッサー園原〉みたいな感じだね(笑)」