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 旧ソヴィエト連邦支配下で欧米の前衛手法を試みていたペルトが、一定期間筆をおき、古い教会音楽を研究、ティンティナブリ様式を見いだし、というのはよく知られる(第1作“アリーナのために”(1976)は、世紀が変わり、ジャン=リュック・ゴダールの「アワー・ミュージック」(2004)でもひびいていた)。ペルトは1980年、45歳のとき一家でエストニアからヴィーンへ移住する。ヴィーンで市民権を得たのち、1982年はベルリンへと居を移し、土地の名を冠した“ベルリン・ミサ”(1990)も作曲。故郷エストニアへと帰還するのは何年もあとだ。

 この作曲家の新しい方向性がみいだされたのは1976年と記した。これ以前、個人史的には、1972年、新しい結婚があり、正教会への入信があった。つれあいと生きる、ともに生活をすることが創作に何かしらゆらぎを、波だちをおこすことはすくなからずある。ペルトにとってもそうだったのかもしれない。ふと、おもう。

 ペルトの人気は、〈クラシック〉や〈現代音楽〉のかぎられたリスナーだけに受け入れられたわけでは(おそらく)なかった(ネットのない時代、CDで音楽をきいた。逆説的に、幅広く音楽をきくひとがすくなからずいた)。1980-90年代にかけて、妙に浮わついた空気がこの極東の列島にあった。のちにバブルといわれた空気だが、その浮わつきの裏にあった倦怠感、疲労感、いや、浮わつきのチル・アウトとしてきかれ、また必要とされる音楽もあった。ブライアン・イーノが〈アンビエント〉といい、吉村弘や芦川聡が列島初(発)の環境音楽を生みだし、ひとつのトレンドにもなった時期。ペルトが、コンサートでなく、レコードをとおして広まったことも、そうした電気をとおしての再生と受容(需要)の音楽環境と、いまの電脳環境が整いつつあった生活圏とつながっているだろう。

 80年代後半-90年代はじめに“アルボス”“ヨハネ受難曲“テ・デウム”のリリース。

 この時期である、ペルトの来日があったのは。ひとつは1990年3月16日、“ヨハネ受難曲”、東京カテドラルでの日本初演。翌1991年4月26日、東京芸術劇場大ホールでは〈アルヴォ・ペルト自選プログラム・コンサート〉の開催。前者は機会を逸したものの、後者には(故・岩淵達治先生が声をかけてくださったのだったか)足をはこんだ。

 6曲の真ん中に“クレド”を配し、前半に“フラトレス”“マニフィカト”“ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌”、そしてピアノ・ソロに土屋律子を加えての大作“クレド”、後半に“フェスティーナ・レンテ”“タブラ・ラサ”。30とちょっとの身には、作曲家の分水嶺にあたる“クレド”はひびいたものの、ほかの、〈ティンティナブリ様式〉の作品たち、ペルトを一躍世界的に知らしめたスタイルにはどうにも居心地がわるく、岩淵先生にぼそぼそ苦言を呈した記憶がある。あの葛藤のない天国的なのはどうも、と。これら2つのコンサート、どちらも、淡野弓子指揮、ハインリヒ・シュッツ合唱団が演奏に参加していた。