Manfred Eicher and Keith Jarrett in Verona, 2001
©Robert Masotti

Part 2からつづく)

オクウィ・エンヴェゾー「ECMのフリー・ジャズ、あるいはジャズやインプロヴィゼーションだけに、あまり時間を割きたくはありません。とはいうものの、そもそもの始まり、いわば知的レベルでのECMの始まりをもう少し深く探っておきましょう。なぜなら一方であなた(マンフレート・アイヒャー)は、音楽家としての仕事は、ジャズだけでなくヨーロッパにおける記譜された音楽への関心を併せ持っていたと発言されました。

そのことについてはまた言及することになると思いますが、私が非常に興味がある側面は、いわゆるジャズの十月革命です。それが何を提示するのか、ご説明願えますか? というのもコンテンポラリー・アートについて語るとき、それがどんなものだとしても、いわゆる受け入れられたラディカリズムの思想を構成する語彙に、あの革命が実際に浸透しているとは思えないのです。しかしながら十月革命は、生産(制作)に関連した過激な思想の文脈の一部だったと思います。

文脈という観点から議論するならば、私が立ち戻っておきたいことのひとつは、ECMが根本的には文化横断的、もしくは大西洋横断的な方法で録音し活動するヨーロッパの会社だということです。ですがそれにもかかわらず、政治的に困難だった最後の瞬間に開始したあの仕事には、わずかながら政治的、かつ文化的な次元がある。たとえば、欧州に住むアフリカ系アメリカの音楽家たちは、自ら離郷するに至ったのかどうか、いずれにせよ政治的にも芸術的にも異なる種類の圧力に直面していた。ですから私にとってフリー・ジャズは、認識論的な意味で、あらゆるレベルにおいて、真に解放のプロジェクトを予告しているのです。この瞬間の、つまり繰り返しになりますが、1968年5月の欧州における階級の解体、それから米国における市民権運動、ポスト構造主義者の唱える理論の台頭。こうしたことは、あなたがやろうとしていたことに影響を与えましたか? ある種の政治的感性がこうした音楽を受け入れたのでしょうか?」

マンフレート・アイヒャー「いいえ、そうではありません。私はカーラ・ブレイとマイケル・マントラーと出会い、私たちは欧州での彼らの記念碑的レコーディングである『The Jazz Composer’s Orchestra』(1968年)の流通と『Escalator Over The Hill』(1971年)の制作に協力していて、彼らは我々をアメリカにおける初の販売ルートへと導いてくれました。彼らのアルバムには、セシル・テイラー、ドン・チェリー、ラズウェル・ラッド、ファラオ・サンダース、ラリー・コリエル、ガトー・バルビエリ、ペリー・ロビンソン、リロイ・ジェンキンス、ジョン・マクラフリン、チャーリー・ヘイデン、ポール・モチアン、それに当時ニューヨークに住んでいたエンリコ・ラヴァといったミュージシャンが参加しました。おそらく十月革命の追い風の中にいたのです。

このアメリカの音楽に、多くのヨーロッパのミュージシャンや私たちの仕事が大変な影響を受けたのです。トーマス・スタンコ、ズビグニェフ・ナミスウォフスキ、ロマン・ディラグ、あるいはクリシュトフ・コメダのようにたくさん素晴らしい音楽家が欧州にいました。コメダはロマン・ポランスキーの映画音楽を書いていました。スウェーデンにはベルント・ローゼングレン、エイエ・テリン、ルネ・カールソン、ヤン・ヨハンソンにボボ・ステンソンがいました。ノルウェーにはヤン・ガルバレク、テリエ・リピダル、そしてイギリスにはケニー・ホイーラー、ジョン・スティーヴンス、エヴァン・パーカー、デイヴ・ホランド、ハワード・ライリー、ジョン・サーマンがいましたし、コペンハーゲンやアムステルダムには大勢のアメリカ人ミュージシャンが住まいと仕事を見つけて、ヨーロッパの音楽家たちが彼らの影響を受けていました。アルバート・アイラーやデクスター・ゴードンのような人たちです。それからドン・チェリーとジョージ・ラッセルがいて、ヨーロッパの音楽シーンに対する彼らの影響は大変なものでした。それから後にレスター・ボウイが参加したアート・アンサンブル・オブ・シカゴが来仏し、BYGでたくさんレコーディングしました」

エンヴェゾー「アート・アンサンブル・オブ・シカゴですか。というのも、これまで言及されてこなかった名前です。キース・ジャレットのことも話さなければなりません……。コドナについても。ECMの世界はずいぶんと広い」