Manfred Eicher and Keith Jarrett in Verona, 2001
©Robert Masotti

(Part 2からつづく)

オクウィ・エンヴェゾー「ECMのフリー・ジャズ、あるいはジャズやインプロヴィゼーションだけに、あまり時間を割きたくはありません。とはいうものの、そもそもの始まり、いわば知的レベルでのECMの始まりをもう少し深く探っておきましょう。なぜなら一方であなた(マンフレート・アイヒャー)は、音楽家としての仕事は、ジャズだけでなくヨーロッパにおける記譜された音楽への関心を併せ持っていたと発言されました。

そのことについてはまた言及することになると思いますが、私が非常に興味がある側面は、いわゆるジャズの十月革命です。それが何を提示するのか、ご説明願えますか? というのもコンテンポラリー・アートについて語るとき、それがどんなものだとしても、いわゆる受け入れられたラディカリズムの思想を構成する語彙に、あの革命が実際に浸透しているとは思えないのです。しかしながら十月革命は、生産(制作)に関連した過激な思想の文脈の一部だったと思います。

文脈という観点から議論するならば、私が立ち戻っておきたいことのひとつは、ECMが根本的には文化横断的、もしくは大西洋横断的な方法で録音し活動するヨーロッパの会社だということです。ですがそれにもかかわらず、政治的に困難だった最後の瞬間に開始したあの仕事には、わずかながら政治的、かつ文化的な次元がある。たとえば、欧州に住むアフリカ系アメリカの音楽家たちは、自ら離郷するに至ったのかどうか、いずれにせよ政治的にも芸術的にも異なる種類の圧力に直面していた。ですから私にとってフリー・ジャズは、認識論的な意味で、あらゆるレベルにおいて、真に解放のプロジェクトを予告しているのです。この瞬間の、つまり繰り返しになりますが、1968年5月の欧州における階級の解体、それから米国における市民権運動、ポスト構造主義者の唱える理論の台頭。こうしたことは、あなたがやろうとしていたことに影響を与えましたか? ある種の政治的感性がこうした音楽を受け入れたのでしょうか?」

マンフレート・アイヒャー「いいえ、そうではありません。私はカーラ・ブレイとマイケル・マントラーと出会い、私たちは欧州での彼らの記念碑的レコーディングである『The Jazz Composer’s Orchestra』(1968年)の流通と『Escalator Over The Hill』(1971年)の制作に協力していて、彼らは我々をアメリカにおける初の販売ルートへと導いてくれました。彼らのアルバムには、セシル・テイラー、ドン・チェリー、ラズウェル・ラッド、ファラオ・サンダース、ラリー・コリエル、ガトー・バルビエリ、ペリー・ロビンソン、リロイ・ジェンキンス、ジョン・マクラフリン、チャーリー・ヘイデン、ポール・モチアン、それに当時ニューヨークに住んでいたエンリコ・ラヴァといったミュージシャンが参加しました。おそらく十月革命の追い風の中にいたのです。

このアメリカの音楽に、多くのヨーロッパのミュージシャンや私たちの仕事が大変な影響を受けたのです。トーマス・スタンコ、ズビグニェフ・ナミスウォフスキ、ロマン・ディラグ、あるいはクリシュトフ・コメダのようにたくさん素晴らしい音楽家が欧州にいました。コメダはロマン・ポランスキーの映画音楽を書いていました。スウェーデンにはベルント・ローゼングレン、エイエ・テリン、ルネ・カールソン、ヤン・ヨハンソンにボボ・ステンソンがいました。ノルウェーにはヤン・ガルバレク、テリエ・リピダル、そしてイギリスにはケニー・ホイーラー、ジョン・スティーヴンス、エヴァン・パーカー、デイヴ・ホランド、ハワード・ライリー、ジョン・サーマンがいましたし、コペンハーゲンやアムステルダムには大勢のアメリカ人ミュージシャンが住まいと仕事を見つけて、ヨーロッパの音楽家たちが彼らの影響を受けていました。アルバート・アイラーやデクスター・ゴードンのような人たちです。それからドン・チェリーとジョージ・ラッセルがいて、ヨーロッパの音楽シーンに対する彼らの影響は大変なものでした。それから後にレスター・ボウイが参加したアート・アンサンブル・オブ・シカゴが来仏し、BYGでたくさんレコーディングしました」

エンヴェゾー「アート・アンサンブル・オブ・シカゴですか。というのも、これまで言及されてこなかった名前です。キース・ジャレットのことも話さなければなりません……。コドナについても。ECMの世界はずいぶんと広い」

 

カール・リッツペガウス「僕が何か話してみようか。多分、十月革命のテーマを締めくくるのに。最近、ある記事を読んだ。彼らにはまったくお金がなく、電気の通っていない暗い部屋で、蝋燭を灯して会っていた。彼ら全員がテーブルについていた。闇が迫り、ある解決策を持ち出してこう言った。〈誰も委員会全員の同意なしにレコード会社に出向いて録音できない〉。これが、彼らがものの見事に失敗した理由だった。つまり、単純にこんなやり方では制作できない。彼らは、クリエイティヴな連中や、もしかすると彼らと共感していたかもしれない人たちを締め出した。要するに集団として思考することはとても、とても難しい。

ECMにとって良かったのは、コントロールしたり判断したりする人の数が少なかったことだと思う。〈こうしたい〉と言い出す人はいるはずだ。たとえば、もし10人がそれぞれ意見を言うことになれば、毎月ジャケットが10種類出来上がる。ECMはあるスタイルを作り上げた。レコード店でも見分けられるし、それがどんなものなのか見てわかる。ECMアーティストのコンサートに行けば、アーティストが何を演奏しようとしているのか知らなくても、伝わる。それはあるレベルに達していて、あるクォリティを伴っていることが分かる。未知のものに飛びつくことではない。

そこで私は思うんだ。十月革命は、名前はすごいじゃないか、一足飛びにソビエト連邦のことを思いつくけれど、そんなものではまったくない。ある集団の、中のさらに小さな集まり。そんなに大したものではなかったし、つまりそんなに重要なことではなかった。ビル・ディクソン(注:十月革命のオーガナイザー)、ポール・ブレイとかアーチー・シェップ……のような素晴らしいプレイヤー達がいた。しかし革命は何も実現しなかった。数ヶ月間の出来事でしかなかった」

エンヴェゾー「過激な思考が仕掛ける試みのほとんどがそうであるように、ジャズにおける十月革命の失敗はアヴァンギャルドの歴史全体に現れた症状です。

しかし、十月革命が推し進めようとしていたことを要約するとして、その革命はとはどんなものだったのでしょう? ECMの作品にどのように現れているのでしょうか? たとえば、コドナ、キース・ジャレット、もしくはアート・アンサンブル・オブ・シカゴ、あるいはヤン・ガルバレクの作品や、あなたがこれまで仕事をしてきた音楽家やグループの広がりのことを考えたとき、彼らが提示しようと試みてきたことの本質とはなんでしょうか?」

マーカス・ミュラー「明らかな繋がりは、ジャズの十月革命が、音楽を作ることやその音楽を演奏したり、録音してその音楽を出版することのさまざまな作業項目で自己決定を行い、自主運営する――1964年かな、その最初の試みだったということです。少なくとも私はそう思います。

ジャズにおける十月革命は、このことを決して忘れるべきではありませんが、ビル・ディクソンが主催した96番街西(オフ・ブロードウェイ)にあったセラー・カフェでの6夜に及んだ(注:実際は10月1-4日の4夜)コンサートだったということ、そして聴衆は60-80名くらいで、すべて売り切れていました。ディクソンはアーチー・シェップ、セシル・テイラー、オーネット・コールマン、サン・ラ、アルバート・アイラー、ミルフォード・グレイヴスらに参加するよう呼びかけ説得しました。全員がその6日間に参加しました(注:終演後に行われたパネル・ディスカッションにだけ参加した音楽家も含まれている)。

そこにポールとカーラ・ブレイ、ビル・ディクソン、アーチー・シェップ、セシル・テイラー、マイケル・マントラー、ファラオ・サンダースとドン・チェリーが加わってジャズ・コンポーザーズ・ギルドが誕生し、それがジャズ・コンポーザーズ・オーケストラになったのです。そして間違いなく、その集団の活動がニュー・ミュージック・ディストリビューション・サービスという、レコードの自主流通の礎になりました。ビル・ディクソンはセシル・テイラーにギルドに参加するよう説得しようとして、彼にこう言いました。〈組織は殺せないが、個人は殺せる〉。これはメジャー・レーベルの論理から逃れ、流通システムの論理から脱するための第一歩でしたし、事業環境の新たなモデルを生み出すための……」

アイヒャー「……それにコンサート活動」

ミュラー「……それとコンサート活動。そうしたことすべてが明らかに問題だったんですが、それも、家賃を払うためのライヴができないという単純な理由でね。

私の記憶では、最初のミーティングで同意したことが枷になって、彼らは、基本的には破綻してしまう。2回目のミーティングでは、メンバー全員がまったく知らなかったんですが、全員が一同に介するこのミーティングまでの合間に、アーチー・シェップはインパルスで5枚のアルバムを出していた。アーチーはもちろん真にアメリカ資本主義の精神の持ち主で、こう言ったのです。〈何を言っているんだい? レコーディングのオファーを受けた。だから作ったんだ〉。

しかし今、最初のECMの作品群が録音された頃を振り返ってみると、オクウィの指摘は一理あると思う。『Free At Last』はそのタイトルではっきりと、市民権運動のような解放運動と歌との関係の長い歴史に言及している(『Free at last』は1963年にマーティン・ルーサー・キングJr.が行った有名な市民権の演説の最後の言葉)。だから、それは自己決定、自主運営、そしてメジャー・レコード・レーベルとの主従関係への批判という概念と向き合う。

それから一目瞭然だが、『Afternoon Of A Georgia Faun』にはAACM(Association for the Advancement of Creative Musicians)のメンバーが参加していて、それは言うなれば、シカゴが生んだ、繰り返しになるけれど、自己決定しアーティスティックな制作という課題に取り組んだ、もう一つの成功した集団だ。だから十月革命同様に、ECMにもある特定の社会-政治学的な文脈があると私は思いますが、どうでしょう?」

 

アイヒャー「『Free At Last』というタイトルは、マル・ウォルドロンの提案でした。最初のアルバムのタイトルとしては上出来でした。振り返ると、とても良いタイトルだったし、これからやろうとしている先々のことへの、良い兆しでした。当初から独立していることが我々の希望でした。

ドイツのラジオ局、と言いましょうか、レコード・プロデューサーからオファーが来たのには驚きました。ある日、ヨアヒム・アーネスト・ベーレントがミュンヘンの私たちのオフィスに現れて、コラボレーションに興味があり、ついては彼がプロデュースすると言うのです。その当時の彼は、すでにオスカー・ピーターソン、スティーヴ・キューン、ウォルフガング・ダウナーやジャン=リュック・ポンティの素晴らしいアルバムを制作した、ブルンナー・シュワー氏の築いた会社、MPSに関わっていました」

エンヴェゾー「これはとても興味深い、意外な事実です。というのも、あなたがいま話されたことは、十月革命の主要な前提に繋がった。そして、それは企業化したアーティストのプロジェクトが存在するビジネス・モデルのようなものからの過激な離脱だった」

アイヒャー「私は企業に在籍したことはありませんので、それから解放されることはありえません。つまり、それが模範だと私は考えたくなかっただけです」

エンヴェゾー「私が言いたいのは、前提であって、実際の実践のことではありません。露骨かもしれませんが、自らを解放し、ある種の主人-奴隷の弁証法と結びついた関係、レコード会社に対して音楽家たちが抱いた愛着、いわゆる企業化のモデルのことですが、こうしたことから逃れることを求めるという点で、十月革命のマニフェスト作成にはマルクス主義に染まった姿勢が明らかだった。そして、おそらくこれがECMが行った主要な革新のひとつかもしれませんね。つまり、ECMはある企業体というよりは、音楽家たちのための協業というコンテクストだった。だから、アーティストは芸術上の理想を実現するためにやってきた。わかりますか? なので、ECMはハウツーではなかった、一つの録音を膨大な枚数売るための。もちろん成功したのなら素晴らしいし、それがすべて。

しかし私の本当の関心は、独立した状態にあることと芸術的な生存可能性との弁証法、つまり経済的な自立/芸術として存立できるかどうかということ。もしそれがどういうことか説明することができればですが、それがECMが注目すべき自主レーベルとして存続させている」

アイヒャー「しかし勇気づけられたのは、このような芸術的なアイデアをたくさんのレコード店が歓迎してくれたことです。たとえば過激なアルバム――『The Music Improvisation Company』、デイヴ・ホランドとバール・フィリップの『Music From Two Basses』(1971年)、それにデレク・ベイリーやデイヴ・ホランドのアルバムのことです。商業的な理由からこうしたレコードはほとんど制作されてこなかった。私は簡潔な(compact)カタログを制作したかった」

エンヴェゾー「それはとても重要なポイントですね。音楽は、商品の流れに刻まれるために制作されていたのではありませんから」

リッツペガウス「そして、これは今も起きている。つまり、ハイナー・ゲッベルスの『Stifters Dinge』(2007年)を聴けばね。このアルバムはここ数年聴いた中でももっとも過激なレコードの一つだ。音楽についての考えすべてを完全に再定義する。音楽って何? サウンドって何?ってね」

スティーヴ・レイク「聴き手を過小評価しないということがあると思います。一般的に、多くのレコード会社の考えというのは、教えてやるよ、というようなものです。ECMは、決してそんな態度は取らなかった。〈我々はこういう音楽に関心がある〉と言い、同じように関心を持ってくれる聴衆がいると信じている」

アイヒャー「私には親和性や、おそらく録音したくなるほど強く語りかける何かに対する本能が備わっていた。それに私たちのプレスのクォリティは素晴らしかった。というのも、我々の流通業者がドイツ・グラモフォンと同じプレス工場を使うことを許可してくれましたから」

エンヴェゾー「つまり、ある種のサウンドに対するフェティッシュがあった?」

リッツペガウス「レコードを作ることの、だね」

エンヴェゾー「そう、それが私の言いたかったことです」

アイヒャー「レコードを制作し、それを最高のサウンドに仕上げること」

エンヴェゾー「その結果というわけですね」

 

リッツペガウス「たとえば、マンフレートがかつて私に話してくれたんだけど、彼は大手のレコード会社がそうしているように、狙った楽曲をアルバムの1曲目にはしない。大手は、セッションの中から一番印象の強い楽曲を探し出して、彼らが言うにはヒットするかもしれないその曲を1曲目にする。マンフレートは、ある出来事を仕掛ける。だから、時にはセッションで一番良かった、もっとも感動的な曲がアルバムの最後から3番目にくる。そのことが道筋となり、ある出来事へと導く」

エンヴェゾー「マンフレートやスティーヴは、大手はもっとも強い印象ものを提示しているだけだと言うのだろうけれど……。キュレーターとしては、気をつけろ! 最初に来るべき展示スペースはどれ?」

アイヒャー「確かに。曲順は、私には信じられないくらい刺激的だし、いろんな可能性があります」

エンヴェゾー「私が取りたい手段というのは明らかに……経験を積むのには、いったん扉をあけたらすべての扉を通過しなければならないというものです。

それでは、ジャズの音楽家たちが実践していたこととは関係のない――互いに親和性があったとしてもですが、アヴァンギャルドな音楽の形式、たとえばジョン・ケージとかとの出会いについて語り合いましょう。こういう音楽がECMのレパートリーに入ってくるのはいつ頃でした? 作曲された音楽、北欧の音楽、即興と作曲された音楽とのそれぞれとのバランスのことですが」

アイヒャー「室内楽ですが、即興的な形式のものから始めました。メレディス・モンクの『Dolmen Music』(1981年)は、予め音楽は記譜されていましたが、レコーディングの過程で変更できないほど厳密に書かれたものではありませんでした。

その後にスティーヴ・ライヒの『Music For 18 Musicians』(1978年)、『Music For A Large Ensemble』(1980年)、『Tehillim』(1981年)と続きました。

ECMのNew Seriesが始まったのは、1984年のアルヴォ・ペルトの『Tabula Rasa』でした。このレコーディングでは、ギドン・グレーメルとキース・ジャレットが初めて“Fratres”という作品で共演しました。事実ですが、2人はそれぞれの分野の巨匠でした。アルヴォ・ペルトはこの2人の音楽家が共演するというアイデアにとても納得していました」

エンヴェゾー「ここでキース・ジャレットの名前があがったのは絶妙……」

アイヒャー「……彼は1984年より随分前からECMで制作していました」

ミュラー「マイルス・デイヴィスを通じてキース・ジャレットを初めて聴いたのだと思いますが、不思議なことにレーベルの、理解し難いというほどでもないある決断のことを思い出しました。経済的な根拠から、さまざまな異論を突きつけられたと思います。つまり、ジャレットのソロ・レコーディングのことです。ECMは『Bremen/Lausanne』(1972年)をリリースしました。LP 3枚組のアルバムで、確かに当時の大手のレコード会社に言わせるとナンセンスなんだろうけれど、君はそうではない」

アイヒャー「キースの最初のプロデューサー、アトランティック・レコードのジョージ・アヴァキアンにしても、ナンセンスでした。〈そんなアルバムを出すなんて君はクレイジーだ〉と彼は言いました」

ミュラー「それから、もちろん『Sun Bear Concerts』(1976年)。最近、よく聴いています。アーティストが1人いて、日本の5カ所で公演を行い、その公演から10枚組のボックス・セットを制作する会社がある。インディペンデントなレコード会社の試みとしては、まったく馬鹿げたことだと思われた。

私は確信がないけれど、カール、世界を見渡して当時、比較できそうな制作物ってありますか。まあ、これが私のジャレット初体験だったわけです」

リッツペガウス「それが制作されたものだと受け取ってはいなかった。『Bremen/Lausanne』のボックス・セットが出たとき、本当にリアルなイベントだった。ラジオ・ブレーメンのペーター・シュルツがそれを放送して、それが今起きていることだという感覚をみんなが抱いたことを憶えている。かつて誰もやったことのなかった何かだった。

先ほど言ったように、彼らは大物のスターじゃなかった。キース・ジャレットはそんなに知られてはいなかった。ミュージシャンたちは彼のことを知っていたけれど、限られた仲間内の中だけだった。

ジャック・ディジョネットとの友情やパートナーシップはいったいどのくらいまで遡るのか、驚くばかりだ。この2週間、ECMにジャック・ディジョネットが録音してきたものすべてを聴いた。私が言いたいのは、マンフレートがドラマーにソロのアルバムを制作しようと1976年に提案したことはまったく新しい出来事だったということ。ジャックは〈私の視野を広げた〉と言った。非常に名誉なことだったろうし、チャンスだったし、いろいろな可能性があった。種を蒔くことができたんだ。キース・ジャレットに白紙の状態で委ねたという事実。

『Bremen/Lausanne』は、キースは演奏して、ECMがリリースする。それがどう進行したのか知らない。私はケルン・コンサートの場所に居た。そのことについて話しましょうか」

 

エンヴェゾー「まさに。そのことが訊きたかった。『The Köln Concert』(1975年)は、この文脈ではどう収まるのでしょう? マンフレートが制作したけれど、あなたはその場所にいた。お話しください」

リッツペガウス「僕が座っていたのは3列目の真ん中だった。そんなに面白いホールではなかった。ケルン・オペラですよ。変わった建物で、何年も経って最近改築されたけれど、壊れそうだったからだと思う。比較的小さなピアノがステージにあった。それだけ。ピアノだけがあった。するとキースが登場して、僕は彼にとても近いところに着席して様子を見ていたが、正直に言って、彼の動作を見ていると気が散る。ご存知のとおり、彼は立ったままピアノに向かってあの奇妙な仕草を続ける。まるでピアノと愛し合っているみたいだった。無論、彼がそうするのは構わないが、それを至近距離から目撃する心の準備はないし、何が起こっているのか分からない。話を端折ると、コンサートの記憶のせいでアルバムを聴くのには時間がかかった。聴いてみるととても良かったけど、それだけのこと。

それから何年も経って、ナンニ・モレッティの映画『親愛なる日記』を観ていると、オスティアにあるパゾリーニが殺害された場所のとても長いショットがあって、この、カメラが移動していく間、『The Köln Concert』が流れる。それはとても重要な瞬間だった。マンフレートを通じて映画の中にたくさんのことを発見したように。『ヌーヴェルヴァーグ』(1990年)のように。マンフレートはゴダールやコメダのような人物とロマン・ポランスキーの初期の映画についても話すんだろうね。この映画を観ていて突然、1975年の1月に観たあのコンサートとのとっても良い繋がりを感じた」

エンヴェゾー「(スティーヴ・レイクに向かって)あなたはコンサートを見ましたか?」

レイク「いいえ。観ていません。レビュー用にレコードを入手して、『Bremen/Lausanne』ほど良いと思わなかったことを憶えていますが、このレコードがどんどん成功を収めていったことには驚きました。それも本当にまったくの口コミでそうなったのです。宣伝はなかったし、これまでもなかったんですが、このアルバムは独りで羽ばたいて、今も動き続けています」

エンヴェゾー「どうしてこんなに成功したのでしょうか? 今でも最も売れているピアノ・ソロのレコードです」

アイヒャー「どうすれば成功をするのかを予見することはできませんが、羽ばたこうとしているかもしれないことは、最初に聴いたときに感じ取れているのかもしれません。

まずミュンヘンで出会う前に、私はヤン・ガルバレクの『Afric Pepperbird』のテスト盤をキースに送って、彼がそれを聴いてから手紙を2通交換しました。そしてソロのレコーディングをすることを決めました。彼は2日間、オスロで自由になる日があったので『Facing You』(1971年)を録音しました。お互い一緒に仕事したくて、有名になったケルン・コンサート以前にブレーメンとローザンヌでのライヴを続けて録音しました。

ケルンはいろいろな人たちに届きました。マルグリット・デュラスは日記にリベラシオン用にケルン・コンサートについて書こうとしていました。ヘンリー・ミラーはキースと連絡を取りました。ボブ・ウィルソンとベルリンのシャウビーネ・シアターは、とても感動的で成功したプロダクションとなった『Death, Destruction, and Detroit』でケルン・コンサートを使いました。これらすべてが、このアルバムの大きな成功の推進力となったのです」

 

エンヴェゾー「レーベルが保存する遺産にいろんな形で根深いアンビバレントな考えを持つレーベルの展覧会を開催することの問題に立ちもどってみましょう。私は、この相反する考えとアーカイヴの関係を掘り下げたい。人はどうやってコンサートの記憶と、その不確かな保存状態にある記憶(archival)との関係を再構築し始めるのでしょう?

というのもケルン・コンサートは、コンサートの映像が存在しないことでは悪名高いですよね。とはいえ、あなた(カール・リッツペガウス)は私たちにモレッティの映画の、パゾリーニに因んだ場所への通り道の映像を教えてくれましたし、この展覧会ではECMの失われた瞬間、映像として残せなかったものは他にどんなものがあるのでしょう? 議論の余地のない歴史的な場所でそのすべてを体系的に記録するという情熱が欠けているのは、意図的な判断でそうなったのでしょうか? そのアンビバレンスはどういうわけでしょう?」

レイク「多分、時間が経って私たちは、セッションのときには写真家が入るといったことに気を遣うようになったと思います。でも当初はそれほど必要なことだと考えていませんでしたよね?」

アイヒャー「考慮する余地なんてありませんよ。大勢でレコーディングに向かうなんてできないのですから。それどころか、舞台裏を記録するという考えもなかった。記録はテープに音楽としてあるのです」

エンヴェゾー「日記をつけたりしなかった?」

アイヒャー「していません。制作しているときは、他のことで手一杯だった。エンジニアの隣に座ってミュージシャンに集中し対応するのに忙しい。これだけでも相当な責任です。コントロール・ルームで注意を怠らず、懸命に聴くには、大変な集中と専念が必要なのです。だから記録はテープに、そして音楽にあるのです」

エンヴェゾー「とはいっても、ECMが培ってきたとても明確なグラフィックやヴィジュアル・センスがあります。そして、その感性は作品の受け取られ方をとても意識的にコントロールして、知的文脈と同様に、とても厳密に、いわゆるヴィジュアルとデザインの言語に位置付けられているように私は思います。レコード・ジャケットのデザインとその表現はむしろ切り詰められ、控えめで、いくぶんよそよそしい、いわば、本当にそうあってほしいと願わなければそうはならない。どのようにしてこのようなアルバムの表現方法を思いついたのですか? 何がきっかけだったのでしょうか?」

アイヒャー「時には書店に赴くことが刺激になっていました。本を買う。わかりやすい、あるいは気の利いた図柄で、良い書体の本。それが私に語りかける。私が制作したレコード・ジャケットと、私はそんな風に出会いたい。それに私は大変な映画狂で、当然、映画は時々ヒントになり、それを発展させるのです」

リッツペガウス「どうしてもっと記録がないのかという疑問に立ち戻りたかった。僕は2、3度、マンフレートと南仏のスタジオにいたことがあります。たとえば、トーマス・スタンコ・カルテットの『Lontano』(2005年)では、マンフレートはピアノを全く違う響きに変えた。ピアノの音は最初、変な感じでとても硬い感じがした。だから、彼は調律師とピアノをある意味解体した。まるでアスリートを解剖するように。すると突然ピアノは開花し、満開になった。

だけどセッションの間、彼はもうすでに曲順のメモを取っている。それは写真家のアンリ・カルティエ・ブレッソンにちょっと似ていて、つまりブレッソンは〈写真を撮っているとき、全体のこと、空間全体の配置を私は考えている。私は何かを見ている。たとえば、人が川を飛び越えようとしているのを見ているけれど、即座に全体のフレームを見ている〉と言った。そして、これがプロデューサーとしてマンフレートが持っている素晴らしい資質の一つだと思う。彼は即座にすべてをフレームの中に位置付ける。まだいろんなことが進行中なのに、音楽は制作中なのに彼はアルバムという形式に収めてしまう。この資質にはまったく驚くばかりだ。

だから、プロデューサーの役割とは何かというのは、とても興味深いテーマだと思う。たくさんプロデューサーがいるけれど、芸術的なプロデューサーはとても少ない。映画でもそうだけど」

エンヴェゾー「私が指摘したかったことをまさに突いてくれました」

出典:ECM - A Cultural Archaeology

(Part 4につづく)

 


EXHIBITION INFORMATION
Ambience of ECM

日程:2025年5月8日(木)~2025年5月11日(日)
時間:15:00~18:00
入場料:無料(要予約)
予約はPeatix特設ページにて受付
https://ambienceofecm2.peatix.com/view
会場:京都新聞社大原山荘(京都府京都市左京区大原上野町238)
注意事項:館内では一部裸足となるプログラムがございます。靴下等脱ぎやすいお履物でお越しください。
主催:東邦レオ株式会社
企画:Rika Ishii/Masaaki Hara/Yuki Tamai
ライブ:岸田繁アンバサード・ストリングス
選曲:岸田繁/三浦透子/岡田拓郎/SHeLTeR ECM FIELD (Yoshio + Keisei)/原雅明
協力:ユニバーサルミュージック合同会社/Audio-Technica/株式会社ジェネレックジャパン/Qobuz
企画協力:dublab.jp/epigram inc.

■プレイリスト情報
selected by 岸田繁 - Ambience of ECM
https://play.qobuz.com/playlist/26925651

selected by 三浦透子 - Ambience of ECM
https://play.qobuz.com/playlist/26925617

selected by 岡田拓郎 - Ambience of ECM
https://play.qobuz.com/playlist/26755879

selected by SHeLTeR ECM FIELD (Yoshio + Keisei) - Ambience of ECM
https://play.qobuz.com/playlist/26715607

selected by 原雅明 - Ambience of ECM
https://play.qobuz.com/playlist/26755947