山内テツが死去した。

山内テツが亡くなったことは、12月4日深夜頃から関係者の間で話題になっていたが、昨日12月6日に山内のXアカウントで正式に発表された。山内の親族によるXのポストによると、彼は12月4日にこの世を去った。産経新聞の報道では、死因は心不全で、葬儀・告別式は本人の意向でおこなわない。79歳だった。

山内テツこと山内哲夫は1946年、福岡県福岡市生まれのベーシスト。当初はギタリストとしてフォークシーンなどで活動していたが、1968年にマイク真木を中心にしたグループサウンズバンド、ザ・マイクスにベーシストとして加入。その後、ミッキー・カーチス&サムライ(ミッキー・カーティスと侍)に参加し、ヨーロッパツアーを経験、帰国後の1970年にアルバム『河童』『侍』を制作した。

1971年のGSからニューロックへの移行期に、元ザ・ダイナマイツの瀬川洋、元ザ・ビーバーズの成田賢という2人のボーカリストとリーダー作『フレンズ』を録音。さらに、初来日公演を開催するために日本へ来たフリーのメンバーと出会ったことをきっかけに渡英したが、バンドは同年に解散した。山内は、フリーのメンバーだったギタリストのポール・コゾフ、ドラマーのサイモン・カーク、キーボーディストのジョン・“ラビット”・バンドリックとともにアルバム『Kossoff Kirke Tetsu Rabbit』を制作し、1972年にリリースした。また同年には、ソロデビューアルバム『TETSU』を日本で制作している。

その後、フリーは再結成したものの、ベーシストのアンディ・フレイザーが脱退したため、山内が後任メンバーになった。フリーのメンバーとして翌1973年のアルバム『Heartbreaker』に参加し、“Wishing Well”“Travellin’ In Style”の2曲では作曲にも携わっている。“Wishing Well”は英国でヒットを記録したが、バンドは1973年に再び解散した。

同年、山内は、ロニー・レーンの後任としてフェイセズのベーシストとなる。バンドの最後のシングル“You Can Make Me Dance, Sing Or Anything”では作曲にも参加、同曲もヒットしたが、フェイセズは1975年に解散した。

山内は日本に戻り、山内テツ&グッド・タイムズ・ロール・バンド(TETSU & THE GOOD TIMES ROLL BAND)を結成。1976年にはソロ2ndアルバム『ききょう』を発表し、1977年にクリエイションへ一時的に加入した。

1980年代はフリージャズシーンに接近、1985~1990年にはフリージャズドラマーの羽野昌二とOpe Bandで活動し、ペーター・ブロッツマンと羽野、郷津晴彦とのアルバム『デア・デヴィル』(1992年)もリリースしている。

2010年代以降は表舞台にほとんど立っていなかったが、2023、2024年にはライブをおこなうなど活動を活発化させていた。

山内の死は、英クラッシュ・マガジンなど海外でも報じられた。また、つのだ☆ひろ、水上はるこ、近田春夫、高崎晃(LOUDNESS)、屋敷豪太、一楽儀光といった著名ミュージシャン、評論家たちの間で追悼の動きが広がっている。

高崎が綴っているように、日本人の音楽家として早い段階から海外で活躍したのみならず、フリーやフェイセズといった英国ロック史における重要なバンドのメンバーとして演奏した山内の功績は大きい。彼の音楽、演奏、活動の姿勢、遺した作品は、今後もロールモデルとして受け継がれていくだろう。