イギリスのビッグ4と呼ばれるバンドがある。ビートルズ、ストーンズ、フー、そしてキンクス。彼らの一歩後ろにつけていたのが、フェイセズ。華やかで、かつ複雑な軌跡を辿ったバンドだった。

このバンドが最初に結成された時のバンド名は、スモール・フェイセズ。スティーヴ・マリオットがボーカル、ロニー・レーンがベース、ケニー・ジョーンズがドラムス、そしてジミー・ウィンストンがギターとキーボードを担当。彼らはみんな体が小さかったため〈スモール〉、モッズだったため〈フェイセズ〉(英語のスラングでファッション好き、トレンドセッターを意味する)というバンド名になったという。

結成初期は、モッズムーブメント界隈で人気だったR&B、ブルーススタイルの曲調だった。65年頃には自作の曲を作り始め、大物マネージャー、ドン・アーデンとの契約や、デッカ・レコードとの契約を取り付けた。アーデンは、バンドの成功に寄与すべく助力を惜しまなかったが、同時に収益のかなりの部分を懐に入れ、それが後にバンド内のトラブルに繋がっていく。

彼らのデビューシングル“Whatcha Gonna Do About It”は65年8月にリリースされ、UKチャートのトップ20位にランクインした。この曲にはマリオットとレーンがクレジットされていたが、ソロモン・バークの楽曲“Everybody Needs Somebody To Love”のリフに、違う歌詞をつけて拝借したものだった(オリジナル曲は65年1月にローリング・ストーンズがカバーしたことでも知られる)。スモール・フェイセズのバージョンは、後にセックス・ピストルズがカバーしている。

バンドがリリースした次のシングルは犯罪映画に採用されたが、映画の発表が遅れたため、シングルのリリースも遅れることになった。このタイミングでジミー・ウィンストンがバンドから脱退し、俳優として活動を始める。彼の後釜としてイアン・マクレガンが参加し、バンドの歴史で一番人気だった時代が開幕。バンドの3枚目のシングル“Sha-La-La-La-Lee”はアメリカの人気作曲家、モルト・シューマンとイギリスの歌手ケニー・リンチが共作し、チャート3位となった。

次にリリースしたのはバンドのセルフタイトル・デビューアルバムで、チャート3位のシングル曲を2曲収録していた。収録曲の“You Need Loving”には逸話があり、この曲はランドとマリオットの作曲となっているが、マディ・ウォーターズの“You Need Loving”と非常に似ているのだ。裁判を起こされることはなかったが、後にレッド・ツェッペリンがスモール・フェイセズのトラックをベースにした“Whole Lotta Love”を発表し、状況をさらに混沌とさせた。

 

彼らの5枚目のシングルは“All Or Nothing”。スティーヴ・マリオットとロニー・レーンが作曲し、UKチャート1位のスマッシュヒットのみならず、世界各国でのチャートで高い評価を得た。この曲はテレビ番組でも起用され、数多くカバーされている。しかし、バンドがイギリスで非常に高く評価されていたこの頃、北米での彼らはほぼ無名のアーティストだった。当時、まだUKチャートとUSチャートの内容は全く違っていて、ネットもなかったため噂も広がらない状態。バンド自体はUSを意識していて、ママズ&パパスの北米ツアーに同行しようとしていたが、マクレガンが麻薬により逮捕されビザの問題が発生。マネージャーやレーベルに失望したバンドは、両方との契約を解除することとなった。

レーベルとの契約解除後、彼らはすぐに、ローリング・ストーンズの元マネージャーだったアンドリュー・ローグ・オールダムが創立したイミディエイト・レコードと契約。67年6月、移籍後初めてリリースされたシングルは、サイケデリック風の“Here Come The Nice”で、UKチャートで12位となった。歌詞にドラッグについての内容は何も書かれていなかったが、バンドは取材陣からドラッグについての追及を受けた。その後、すぐに新レーベルで出したアルバム『Small Faces』は、この曲の成功にもかかわらず、そこそこの売上にしかならなかった。

このアルバムのすぐ後にマリオットとレーンが作曲した“Itchycoo Park”をリリース。これが、UKで3位、USで16位になり、USで初めてチャートインしたシングルとなった。バンドはこの曲でフランジャーと呼ばれるエフェクトを使い、フランジャーはその後流行りとなる。この曲のタイトルになった〈イチクー公園〉の場所はいまだに議論の種で、イチクーの語感が日本語の〈イチョウ〉と似ているため、イギリスにあった銀杏の木がある日本庭園だという説もあるが、最も有力なのはイルフォードのヴァレンタインズ公園のことだと言われている。

 

次のシングル“Tin Soldier”はマリオット作で、UKで9位になったものの、USでは73位だった。UKでのヒット続きに反して、アメリカでの彼らのイメージは“Itchycoo Park”だけの一発屋というイメージが強かった。次のシングルである“Lazy Sunday”もマリオット作で、ご近所とのいさかいを冗談めかして作った曲。バンドの意向を無視してシングルカットされてしまったが、チャートでは2位につけている。

その流れから、最後のシングル曲となった“The Universal”もマリオット作で、メイントラックは彼の家の裏庭にてアコースティックギターで録音されたもの。このシングルはチャート11位に〈しか〉ならず、がっかりしたマリオットは以降作曲を辞めてしまう。

バンドは次に、アルバム『Ogden’s Nut Gone Flake』をリリース。サイケ風味のコンセプトアルバムとして、丸いジャケットで68年5月に発売。UKではチャート1位となったものの、USでは159位と振るわなかった。UKでは大いなる成功を収めたにもかかわらず、この複雑なアルバムをどうツアーに組み上げるか、バンドは困り果てていた。そして、その年の年末のライブでマリオットはバンドからの脱退を宣言する。彼は「スモール・フェイセズのポップなイメージと訣別したい」と述べ、脱退後、ハードのピーター・フランプトンとブルース寄りのグループを結成、ハンブル・パイと命名した。

 

アルバムが1位となった直後に起きた、メインボーカル兼作曲担当だったマリオットの離脱は、フェイセズを厳しい状況に追い込んだ。彼らは、ジェフ・ベックがヤードバーズを離れてすぐ録音した2枚のアルバムに一緒に携わっていた2人、シンガーのロッド・スチュワートと、ギタリストのロン・ウッドと合流することで、その状況をなんとか凌ぐことになる。ベックが2人とリリースした2枚のアルバムは好評で、特に68年1月にリリースされ、革新的と言われた『Truth』はチャート15位を獲得。このアルバムは、ヘビーなブルースをベースにしたロックサウンドを世界中に知らしめることに成功した。元ヤードバーズのジミー・ペイジによる新バンド、レッド・ツェッペリンはデビューアルバムを69年1月にリリースしたが、ローリング・ストーン誌などは『Truth』と比べるとイマイチ、という評価を下している。レッド・ツェッペリンはベックと同じ曲を録音し、アレンジも似ていた。

レーベルは、メンバー変更後もスモール・フェイセズの実績を大事にし、バンド名はそのままで活動すべきだという意見だった。USでの最初のアルバムでは、バンドは名前をスモール・フェイセズのままにしたが、その後バンドはフェイセズに改名。新体制での最初のアルバム『First Step』はセルフプロデュース作で、70年3月にリリース。だがビルボードでは119位と苦戦した。次のアルバム『Long Player』も同じくそこそこの位置付けだったが、このアルバムに収録されていたポール・マッカートニーのカバー曲“Maybe I’m Amazed”は感情豊かで必聴の楽曲だ。また、このアルバムのセッションで、非常に素晴らしいテンプテーションズのカバー曲“I’m Losing You”を録音していたにもかかわらず、アルバムには収録されなかった。

 

71年5月、ロッド・スチュワートは3枚目のソロアルバム『Every Picture Tells A Story』をリリース。そのクレジットには記載されていないが、セッションプレイヤーと共にフェイセズのメンバー全員が参加している。フェイセズはスチュワートの前作にも参加していて、ウッドとマクレガンはソロデビューシングルにも協力していた。スチュワートの最初のソロシングル曲はティム・ハーディンの“Reason To Believe”のカバーだったが、DJたちはB面の“Maggie May”を好み、これが世界中でナンバーワンヒットとなった。一方、3枚目のシングル“I’m Losing You”はフェイセズのアルバム『First Step』の中から拝借され、後にいざこざの種となった。さらに事態を複雑化させたのが、フェイセズがワーナーブラザーズと契約したのに対し、スチュワートはマーキュリーと契約したこと。そのスチュワートのアルバムはUKで6週に渡り1位を維持し、USでも4週連続1位となった。

その次のフェイセズのアルバム『A Nod Is As Good As A Wink... To A Blind Horse』は71年11月にリリースされた。プロデューサーはグリン・ジョーンズで、UKで2位、USではゴールドレコードとなる。このアルバムでは陽気なヒットシングル曲“Stay With Me”や、ロニー・レーンがリードボーカルだった3曲のうち1曲、バラードの“Debris”が収録されている。

72年7月にはロッド・スチュワートが4枚目のソロアルバム『Never A Dull Moment』をリリース。このアルバムにもフェイセズのメンバーが参加し、スチュワートとウッドの共作曲が3曲収録されている。また、スチュワートが最も影響を受けたアーティストの一人であるサム・クックの楽曲や、ボブ・ディランの楽曲(スチュワートはディランの曲を多くカバーしている)、ジミ・ヘンドリックスが作曲した“Angel”なども収録されている。ロン・ウッドは若かりし頃、一時ヘンドリックスとロンドンのホランド・パークで同居していたことがあり、ヘンドリックスが死んだ夜にはロニー・スコットのナイトクラブで会っていたという。感傷的なシングル曲“You Wear It Well”はまたUKのナンバーワンヒットとなった。

 

73年の3月にフェイセズは4枚目のアルバム『Ooh La La』をリリースし、これもまたヒットとなった。マクレガン、ウッドとスチュワートが共作したシングル曲“Cindy Incidentally”はUKチャート2位となる。はたから見れば、このスマッシュヒットはバンドをハッピーにしただろうと思うだろうが、実際にはこのヒットがバンド瓦解のきっかけになっていた。自分のソロ活動に気を取られたロッド・スチュワートはレコーディングの最初の2週間、姿も見せなかったのだ。その時点でスチュワートにはバンドにいたいという意思があるのかどうかもはっきりせず、結局収録曲のうち3曲には参加していない。ロニー・レーンが作曲の担当を増やし、タイトルトラック“Ooh La La”もロン・ウッドがリードボーカルをとった。状況をさらに悪化させたのが、ロッド・スチュワートがニュー・ミュージック・エクスプレス誌(NME)のインタビューにおいて、このアルバムについて「メチャクチャ……最悪だ」と答えたこと。だが、アルバム自体はUKチャート1位を獲得した。

73年6月、スチュワートの自己中心さや批判的なコメント、自分がスターティングメンバーであるにもかかわらずバンドで常にわきに押しやられるような状態にうんざりしたロニー・レーンがバンドを脱退。その後すぐ、英バンドのフリーで活動していた日本人のベーシスト、テツ・ヤマウチ(山内テツ)が加入した。この後2年半の間、バンドは長期ツアーを開催し、その会場のほとんどは満員のスタジアム級だった。

新メンバーのヤマウチは、結局あまりバンドとは馴染まなかったという。非常に能力の高いベーシストではあったが、レーンのように曲が書けるわけでもなく、フェイセズのメンバーが徐々に脱却しようと試みていた伝説的とも言える深酒の習慣にはまった。スチュワートはヤマウチを「英語もほとんど話せない」と評し、コミュニケーションにも問題があったことがわかる。このメンバーでは一度もスタジオレコーディングは行わず、ライブアルバム『Coast To Coast』だけがリリースされている。このアルバムは、73年10月17日に行われたアナハイム・コンベンション・センターでのライブのラフレコーディングだった。アルバムには〈ロッド・スチュワート/フェイセズ〉とクレジットされ、スチュワートのソロアルバムから6曲、フェイセズの曲から3曲と、新たに2曲のカバー曲を収録。複雑なビジネス上の調整から、レコード版はマーキュリーが、カセットと8トラック版はワーナーがリリースした。このアルバムはすぐに絶版となったが、日本ではCD化され、現在はコレクターズアイテムになっている。

バンドの最後のシングル“You Can Make Me Dance, Sing Or Anything”は74年11月にリリースされ、クレジットにはメンバー全員が記載されていた。チャートではUKで12位。75年にはロン・ウッドがバンドを離れてローリング・ストーンズに加入。それによりフェイセズに新たな亀裂が生まれてしまい、バンドは最終的に解散する。

 

ロッド・スチュワートはその後も売れ線を突き進んだが、78年にリリースしたディスコ・ヒットナンバー“Do You Think I’m Sexy”で多くの古くからのファンを失うことになる。その後、2度ほどジェフ・ベックと共演したものの、その関係は続かなかったが、近年リリースした5枚組のスタンダードナンバーのカバー作は非常によく売れた。彼は伝説的な女好きで、タブロイド紙の表紙によく登場し、5人の女性との間に8人の子供がいる。

スモール・フェイセズのオリジナルシンガーだったスティーヴ・マリオットはその後ハードロックバンドのハンブル・パイのフロントマンとして成功を収め、税金の問題もあり主にアメリカでツアーを行った。91年、飲酒後のタバコの失火により44歳で他界したが、この華やかなシンガーは今日に至るまで多くの影響を残している(ブラック・クロウズのファンならハンブル・パイの“Smokin’”は必聴だ)。マリオットの葬儀ではフェイセズの“All Or Nothing”が流された。

ロニー・レーンはそれなりの成功を収めた。その後の活躍で特筆すべきは、フーのピート・タウンゼントとリリースしたアルバム『Rough Mix』。彼は97年、51歳の時に多発性硬化症(MS)で亡くなった。

イアン・マクレガンは自分のバンドを結成しつつ、サイドマンとして『Some Girls』時代のローリング・ストーンズやロニー・ウッドのプロジェクトに参加したり、ボブ・ディランやルシンダ・ウィリアムスとも共演したりもしている。彼と妻のキム・キャリガン(キース・ムーンの元妻)はテキサス州オースティンに移住。2014年に、69歳で脳卒中で亡くなっている。

ケニー・ジョーンズは、78年のムーンの死後、ドラマーとしてフーに加入。

テツ・ヤマウチは日本に帰国した。その後、ジャズのセッションに参加したりはしているものの、マスコミを避けて生活している。何度かあったフェイセズの再結成のオファーは全て断っているという話だ。

フェイセズはその後、何度か再結成的なイベントを行っている。86年が最も知られているもので、レーンは車椅子のため演奏はできなかったが、ロッド・スチュアートのウェンブリー・アリーナでのコンサートに出演した。他にも、いくつかの単発のライブでメンバーが一緒になる機会もあった。2008年にはロッド・スチュワートがフェイセズの残ったメンバーでの再結成を表明したものの、1度リハーサルが行われ、ウェブサイトが立ち上がったのみで、その後の話は立ち消えたかに思われた。しかし2009年、フェイセズはシンプリー・レッドのミック・ハックネルを含む多くのシンガーらとチャリティーコンサートをロイヤル・アルバート・ホールにて開催。ロニー・レーンの未亡人に収益の一部が寄付された。2010年から2011年には、ハックネルをボーカリストに、セックス・ピストルズのグレン・マトロックをベーシストにそれぞれ迎えてツアーを行い、その際には日本にも訪れている。2012年にはスモール・フェイセズとフェイセズがロックの殿堂入り。それを機にイベントが企画されたが、前夜になってスチュワートがインフルエンザに罹患したと発表してドタキャンしたため、ボーカルの代打としてまたハックネルが出演した。

今年の7月には、ロッド・スチュワート、ロン・ウッドとケニー・ジョーンズが集まり、新しいスタジオアルバムを録音したと発表している。完成の暁には、ぜひチェックしてほしい。