現在、欧米を中心に再評価の波が広がるPOiSON GiRL FRiEND。その原点とも言える作品『POiSON GiRLFRiENDS』が、初のCD復刻および初LP化される。

後に『MELTING MOMENT』『SHYNESS』へとつながる本作は、まだPOiSON GiRL FRiENDがユニットとして活動していた時代に制作された自主制作盤。1989年、ロンドンでクラブカルチャーに衝撃を受けたnOrikOは、当時まだ日本では珍しかったギターポップとダンスミュージックの融合を模索しながら、仲間たちとともにベッドルームのような環境で楽曲を作り上げていた。

ストーン・ローゼズやプライマル・スクリームとの出会い、斎藤ネコとの共同制作と決裂、自主制作盤を抱えてレコード店を回った日々、そして後のビクターからのメジャーデビューやモーマスとの邂逅――。今回のリイシューを機に、POiSON GiRL FRiEND誕生前夜の物語を聞いた。

POiSON GiRL FRiEND 『POiSON GiRLFRiENDS』 ビクター(1991)

 

女性3人組でスタートした〈POiSON GiRLFRiENDS〉

――『POiSON GiRL FRiENDS』は、もともとユニットとして制作された作品です。まずは、その結成の経緯から教えてください。

「もともとは、ソロのシンガーソングライターとしてCDを出す話があったんです。ライブでは〈THE POiSON GiRLFRIEND〉という名前で活動していて、レコード会社ともレコーディングの準備を進めていました。でも、会社の編成変更などいろいろな事情が重なって、一度すべて仕切り直しになってしまったんです。レコーディングのスケジュールも白紙になりました。

当時は事務所にも所属していなかったので、レコード会社としてもリリースまで持っていくのがなかなか難しかったんだと思います。そんな時期に1人でふらっとロンドンへ遊びに行き、そこでクラブミュージックに出会って、〈あ、私はこういう音楽をやりたいんだ〉と思いました。帰国してから、その話をずっと周りにしていたんですね。すると、なぜか最初は女の子3人組で活動することになって(笑)。

メンバーの江頭直子さんはクラシックの音大を卒業された方だったんですけど、とにかくかっこよくて。〈ギターを持ったら似合いそうだから、やってみない?〉なんて誘ったんです。もう1人は高校時代の同級生で、ベース担当でした。私はリズムボックスで曲を作り、ギター、ベース、ボーカルという編成でスタートしました。それで名前も〈POiSON GiRLFRiENDS〉と複数形にしたんです」

――今回リイシューされる『POiSON GiRLFRiENDS』は、どのような経緯で制作が始まったのでしょうか。

「当時から斎藤ネコさんがインディーズの若いミュージシャンに興味を持っていて、〈面白い作品を作ろう〉と言ってプロデュースしてくださることになったんです。ネコさんのスタジオでレコーディングを始めるのと並行して、3人でライブもやっていました。

ただ、ライブを3回ほどやった頃だったと思うんですけど、録音を進める中で、なぜだったのか今ではあまり覚えていないんですが、私が斎藤ネコさんと大喧嘩してしまって。〈もう一緒にはできない〉という話になってしまったんです。

それで、途中まで録音していたテープを持って別のスタジオへ移ることになりました。最終的にはベース担当の同級生と私の2人で続けることになったのですが」

――そこから完成までは、かなり時間がかかったのでしょうか。

「そうですね。半年から1年くらいかけて、なんとか完成させたと思います。当時の私はどちらかというとアコースティックな曲を書いていて、ソロデビューの話があった頃のプロデューサーはギタリストの今堀恒雄さんでした。だから、ティポグラフィカ周辺にも通じるような、ギターを軸にした少しアバンギャルドなサウンドを志向していたんです。

一方で、この作品の後半に収録されている曲はかなりギターポップ寄りですね。ちょうどロンドンで聴いていたのが、出始めた頃のストーン・ローゼズや初期のプライマル・スクリームでした。特にプライマル・スクリームのファーストアルバム(『Sonic Flower Groove』)はみんなでよく聴いていて、〈こういうのいいよね〉と話していました」