タワーレコードの〈NO MUSIC, NO LIFE.〉サイトで連載中の〈ポップの羅針盤〉。ポップミュージックがはらむ〈予感〉について、社会の〈羅針盤〉になり得る可能性について、音楽評論家/ジャーナリストの柴那典さんがその時代性を読み解く連載です。今回のテーマは〈FUJI ROCK FESTIVAL 2026〉。 *Mikiki編集部
フジロックは、体験として2つの異なるレイヤーを持っている。
苗場から東京へと向かう深夜の高速道路を飛ばしながら、そんなことを考えていた。
今年のフジロックは、前夜祭を含む4日間でのべ12万3,500人が来場。ここ5年間で最大の動員数だ。若い世代の客も多かった。外国からの来場者もかなりいた。盛況だったと思う。会場も混雑していた。雨も降った。それでもストレスを感じるような場面はほとんどなかった。
一方で、数字は発表されていないが、おそらく来場者を遥かに上回る人数が配信を通してフェスを視聴した。ここ数年、フジロックはAmazon Musicがオフィシャルサポーターとなり、Prime VideoとTwitchで無料生配信を行っている。日本の4大フェスでも無料でのライブ配信が定着しているのはフジロックだけで、そのことがフェスの持つ特殊なメディア性につながっている。
ステージに立つアーティストは、目の前にいるオーディエンスに向けて演奏し、言葉を放つ。しかしそのパフォーマンスとステートメントは、その外側に届く。熱量のこもった実感ではなく、切り取られた一場面への反応のほうが、コントラバーシャルな話題性として拡散していく。今年も、特に1日目にそういう実例があった。僕自身、それを受け取ったのも配信とSNSを通じてだった。
野外フェスでの体験は、身体性と深く結びついている。特にフジロックはその要素が強い。長靴なのか、スニーカーなのか、トレッキングシューズなのか、みんな足元にこだわりを持っている。僕もいろいろ試したけれど今のところOnの防水ハイキングシューズがベスト。夜の底冷え対策としてライトダウンベストを丸めてジップロックに入れて持ち歩くのだけど、今年みたいな雨続きの日には本当に役に立つ。濡れるとか肌寒いとか、そういう肌を通じて感じるものが先に立つ。そして、森の中を歩く時の空気の匂いや、キラキラと光る装飾を見上げるときの首の動きや、泥の水たまりを避けて歩く足取りや、だんだんと蓄積する疲労や、そういう身体感覚と不可分のものとしてフェスの記憶が残る。
でも、配信には、そういう身体性のレイヤーはない。そのかわりに情報と記号性のレイヤーが強く、かつ広範に行き渡る。単にリアルとオンラインの違いだけでなく、無料かつ生配信ということが大きな意味を持つ。コメントやSNSを通じて〈誰かの言及〉がリアルタイムに入ってくる。それが自分の感覚と混じり合う。
もちろん、どっちが良いとか悪いとかじゃない。フェスの体験がそういう2つの異なるレイヤーを持っているということ。しかも現地のオーディエンスだってみなスマートフォンを握りしめているわけだし、そこでSNSを観たり、宿での休憩中に配信を観たりするわけで、その2つのレイヤーは重なり合っている。僕自身、1日目は配信、2日目と3日目は現地参加だったので、その両方を通じてフェスを体験した実感がある。