身体で森と話す

 自死を望むマシュー・マコノヒーが入っていく青木ヶ原の樹海のことを、彼とともにそこをさまよう渡辺謙は「煉獄」と呼びます。この森を、死者が試練によって浄化されるために入っていく世界であると言うのです。それは、彼らがこの森に傷を与えられ衰弱させられることで森に捉えられ、苦痛や死と対峙することになるからです。そして、その経験を通して、死の意味、ひいては生きることの意味を見出していくからです。

 そんな展開に説得力を与える装置の一つが、マシュー・マコノヒーという俳優です。彼の出演してきた映画たちは、彼の俳優としての、ある種過剰な身体性とでも言うほかない特性を、浮かびあがらせています。『ペーパーボーイ 真夏の引力』での彼は、緊迫され暴行されて初めてエクスタシーを感じるマゾヒストを、その見事な筋肉が却って惨たらしくもある裸体をさらして、演じていました。『マジック・マイク』での、男性ストリッパーとしてのマコノヒーの踊りは、相棒のC・テイタムのあくまでダンスとしての見事な動きに比べ、ダンスと呼ぶにはあまりに煽情的な身体の言葉を投げつけて来ます。『ダラス・バイヤーズクラブ』では、ガン患者を演じた彼が何度もいきなりぶっ倒れる、その倒れ方に逆に自らの肉体を食い尽くすような意志が噴出してくるのです。サイレント映画の終焉とともに失われてしまった身体による直接的な表現を、この俳優は現代に蘇らせているようにも見えます。

 『追憶の森』も、そんな彼の身体性に、大事なものを託しています。物理の教師にしてはマッチョすぎる肉体を持てあますかのような彼の歩き方は、樹海で深い傷を負ってからは、全く別のものに変容していきます。一歩を進めるのにも難渋しつつ、森の岩や水、地形や気候の全てと、身体全体で向き合わないわけにはいかなくなる。聖痕とも言うべき傷により、彼は身体で森と対話する存在になっていくのです。

 物語の中のそんな彼の役割は、実は冒頭近く、彼が日本への飛行機に乗るところから既に示されています。手荷物検査場で上着を外し靴を外しベルトを外していく彼の仕草をカメラが延々と追うのは、彼が裸の生身で森と相対していくことの比喩なのでしょう。実際、彼は森の中の様々な状況の中で、どんどん衣服を脱ぎ捨てていく羽目になる。

 そうやって、自身の身体を媒介に、彼は自らの死に直面しつつ、彼をこの森へ向かわせることになった大事な人の死にも、向き合っていきます。死者と向き合うことは死者を「思い出す」ことであり、死者を「思い出す」ことは死者と「ともに生きる」ということです。そういう生に入っていくための鍵を、彼はこの森で手に入れることになる。かかる経験を経て、ラスト近く、マコノヒーがシャツを新たに身に着ける場面は、この俳優のみに許された「再生」の表現であるのは、言うまでもありません。

 


映画『追憶の森』
監督:ガス・ヴァン・サント
音楽監修:クリス・ドーリダス
音楽:メイソン・ベイツ
出演:マシュー・マコノヒー/渡辺謙/ナオミ・ワッツ/他
配給:東宝東和 (2015年 アメリカ  111分)
(C)2015 Gand Experiment, LLC.
◎4/29(金)ロードショー 
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