©内藤忠行

アフリカの印象――ジャズの音、ジャズの映像

 すでにご覧になっているだろう、この号、intoxicate誌の表紙は、ピアノを弾いているセシル・テイラーの後ろ姿だ。セシル・テイラーは4月5日、世を去った。89歳。

 フリー・ジャズ、のミュージシャンといわれてきたし、現にいわれ、いわれつづけている。そうなんだろう、とおもい、そうなのかな、ともおもう。どこかで引っ掛かりをおぼえつつ、セシル・テイラー、と口のなか、音になるかならないかのように呟く。

 オーネット・コールマン、ドン・チェリー、アルバート・アイラー……そんな名をおもいだし、こうした息をとおして発音する楽器の人たちとちがって、ヨーロッパ近代のテクノロジーを具現したようなピアノで、88の不自由な、よりによって白黒の鍵盤で、〈フリー〉を、〈自由〉をまさぐり、たたきつけたセシル・テイラー。ステージ中央のピアノにたどりつくまでに、ダンスのようにしなやかに身体を揺らし、足につけた鈴をならし、自分の弾く楽器に近づきたいのかできるだけ遠ざかっていたいのかのあいだを逍遥していたセシル・テイラー。

 2013年度の京都賞、思想・芸術部門(音楽分野)を受賞していることが想いだされる。それまで京都賞は、ヨーロッパ芸術音楽系の人たち、いわゆる現代音楽の作曲家やクラシック系の演奏家に贈られてきた。メシアンが、ケージがいた。リゲティ、ブーレーズ、アーノンクールがならんだ。そこにセシル・テイラーの名がはいってきた。いいじゃないか、京都賞にセシル・テイラー。この唐突さこそがセシル・テイラーだ。わたしはひとり、快哉を叫んでいた。何年か後、ノーベル文学賞にボブ・ディランが挙がる先どりでもあった。賞の方向性が変わった、賞が21世紀になってのかたちを反映していた。ま、賞は〈あとづけ〉、作品や行為の〈いま〉ではなく、〈あと〉でしかないにしても。

 東京オペラシティ「ニューイヤー・ジャズ・コンサート 2007」でセシル・テイラーは演奏を聴かせてくれた。「ニューイヤー」として1月10日に開かれるはずだったのが、2月21日に変更され、第一部はソロ、第二部でセシル・テイラーと山下洋輔とのデュオとして構成された。もしかしたらこの列島にはやってこないんじゃないか、来られないんじゃないか、聴けないんじゃないかとの不安が当日ちかくまであったことを記憶している。いまから11年ほど前のことだ。

 1929年生まれ。アルバムで共演しているコルトレーンや、マイルスとは3つ違い。まだ本領を発揮していなかった、実力を充分に示せていなかったコルトレーンをメンバーにした『ステレオ・ドライヴ』(1958/1959)――のちに『コルトレーン・タイム』(1963)となった――で、〈フリー〉ではないジャズを、それでいながらコルトレーンの延々とつなげられる息のながれに対して鋭角的に切りこみ、小隕石のように落ち、砂のようにくずれるセシル・テイラーのピアノは、たとえばおなじ時期のピアニスト、シルヴァーでもモンクでもいい、エヴァンズでもいい、と対比してみるなら、すでに、あるこぼれ、ジャズからのこぼれをみてとれた。

 表紙を、ピアノにむかう背の、大きな背の写真をあらためてみてみよう。撮影は内藤忠行。

 内藤忠行とジャズ、ジャズ・ミュージシャン。たしかにこの写真家はジャズに酔い、ジャズ・ミュージシャンを接写した。セシル・テイラーを撮ったすばらしい写真がある。だ・か・ら、追悼として相応しい――いやいや、それでは安易にすぎる。

 「日野皓正の世界」があり、渡辺貞夫を撮った「NABESAN」があった。近年では2016年、マイルスを撮った私家版「I LOVED HIM MADLY 俺は彼を死ぬほど愛してる」も。

 渡辺貞夫に同行してアフリカの地に足を踏みいれたこの写真家は、アフリカの土地に、自然に、自然がつくりだしたかたちに、アートに、人に、そしてもちろん音楽に大きく揺さぶられる。揺れであり、波。視覚にはもちろん、空気や熱、空気の振動。ただファインダーをむけるだけでは足りない、と考えたのだろうか。内藤忠行はシマウマを目眩くものとして造形しなおす。似たような、シマウマを素材としたアートはある。内藤忠行がつくりだすのは、スタティックなものではなく、目にするものが幻惑され、巻きこまれるもの。そしてそれはたぶんジャズ・ミュージシャンであっても、自然界にあるものであってもおなじで、みずからがそこで感じた振動を何とかして〈ここ〉にたちあげようとする、その意志による。

 何かを感じるとき、目にはいっているものだけではなく、その場所があり、時間があり、みずから身体、身体の姿勢、そのときの重力、空気、まわりの音、そばにあるもの・人、が何らかのかたちで、しかし知らず知らずのうちに、大きくかかわっている。じぶんが何かを感じて、それを写真に撮るなりしても、その場からはなれてしまったら、その視覚性だけだったなら、たくさんこぼれおちてしまっている。そこにいた〈わたし〉は心身が記憶しているがゆえに、想像裡にその場にかえることができる――できるかもしれない。でも、ただ平面的な写真だけではどうか。こぼれおちたもの、を知らないまま、気づかないまま、みているだけではないのか。いや、そこでこそしごとをしている人たちもたくさんいる。そのうえで、内藤忠行は、もっと伝えたい、あの振動そのものをみずからの写真が、写真作品が効果することを希む。だからこそ、写真をそのまま提示するだけでなく、ときに加工し、アートワークの領域に手を拡張することにもなろう。

 内藤忠行は、みずからがみているもの、みたもの、感じたものが、そのままでは伝わらないことをいたいほど知っている。感じさせているものが何かまで遡行しなければならないことを、その感じさせている何か、その核をこそ、べつのかたちで飜訳しなければ効果しなければならないことを知っている。この十年、二十年のあいだに、デジタル技術が進化・深化することでこそ可能になる、あるいは、かつてなら異様に手間がかかる作業がかなり楽にできるようになることがあり、だからこそ内藤忠行は、いま、元気だ。