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スタジアム級のテクノ・アクトという責任から解き放たれ、自由な創造性を掴んだ
by 木津毅

僕たちの世代にとってのアンダーワールドは、何と言ってもダニー・ボイルの映画「トレインスポッティング」(96年)、そして“Born Slippy Nuxx”だろう。僕は当時中学生だったので劇場では観ていないが、日本では〈オシャレ映画〉としてわりと数年単位で語り継がれていたため(本当はオシャレどころか、英国におけるドラッグ・カルチャーの悲哀をしたためたものだったのだけど……)、その余波は地方のレンタルビデオ屋なんかでもじゅうぶん感じられた。そして、映画を通じて彼らにとっての永遠のアンセムとともにアンダーワールドに出会うことになった。そういう人はけっこう多いのではないだろうか。

いまから振り返っても、90年代末から21世紀の幕開けの時期のアンダーワールドは、スタジアム級の会場でのステージに立ったりフェスのトリを務めたりするビッグ・テクノ・アクトとしての〈責任〉をみずから引き受けるようなところがあった。トランシーなダンス・サウンドを貫いた『Beaucoup Fish』(99年)もそうだし、極めつけはライヴ・アルバム『Everything, Everything』(2000年)だろう。まさに大会場でのライヴの模様を当時の代表曲の連発とともにそのまま封じこめた同作は、アンダーワールドという存在がもっとも肥大していた時代を切り取ったものだ。彼らはその後、アートへの純粋な欲求と〈責任〉の間で引き裂かれていき、“Born Slippy 2003”ではメロウなピアノの旋律とともにスタジアム・アンセムを一度みずからの手で異化している。

2000年のライヴ盤『Everything, Everything』での“Born Slippy Nuxx”のパフォーマンス
 

それ以降ももちろんアンダーワールドはビッグ・アクトであり続けたが、しかしこの〈Drift〉シリーズからは彼らが〈責任〉からもはや解放されていることが伝わってくる。アルバムという制約に縛られなくなったことで、〈TOMATO〉のチームとともにより純粋なマルチメディア・アート・プロジェクトとして自分たちを定義し直しているのである。だから『Drift Series 1』にはたしかにライヴ映えしそうな“Listen To Their No”なども収められているのだが、それはあくまで膨大な楽曲――非常に多面的なサウンド――の一部であって、アンダーワールドの持つ多様な側面はすべて等しく祝福されている。いま彼らが掲げているのは、何よりも創造性における〈自由〉である。 

※アンダーワールドも所属するクリエイター集団
 
『Drift Series 1』収録曲“Custard Speedtalk”