2020年3月29日、この国を代表するコメディアンが、新型コロナウイルス感染症による肺炎でこの世を去りました。彼の名前は志村けん。ザ・ドリフターズのメンバーとして活躍し、数えきれないほどの名ギャグと独自のキャラクターで笑いを生み出してきた、唯一無二の存在です。

日本全体がかなしみに暮れるなか、音楽の世界でも彼の死を惜しむ声がやみません。それは、志村けんがソウル・ミュージックやファンクを愛していたから。そしてその愛が、〈笑い〉に転化されていたからです。

今回は、世代を超えてお茶の間で愛された志村けんを追悼するため、自伝的エッセイ「ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」が話題のライター、松永良平が筆を執りました。 *Mikiki編集部


ぼくは1968年生まれで、志村さんの前任だった荒井注在籍時代(64〜74年)の「8時だョ!全員集合」のザ・ドリフターズについてはギリギリ覚えている世代。〈This is a pen!〉とか〈なんだバカヤロウ〉が荒井さんのギャグだったよね。不機嫌でオフビート。肉体を使って笑わせるイメージのあったドリフにあって、荒井さんの〈動かなさ〉〈大人っぽさ〉は子ども心に印象に残っている。

志村けんが7年に及んだ付き人生活を経てドリフの新メンバーとして紹介されたのは、奇しくも訃報が流れた日とおなじ1974年3月30日だったという。

新メンバーになった志村けんの印象はしばらくの間、ほとんどなにもない。突如舞台に現れては奇声を上げて走り回るすわ親治(もうひとりの付き人だった)のほうが、はるかに強烈なイメージだった。76年に訪れる“東村山音頭”でのブレイクまで、テレビの画面で志村けんに注目する人はいなかったはず。

やがて、志村けんはそのモラトリアム的な殻を、実家のある東京都東村山市を舞台にした音頭“東村山音頭”を武器にして、一気にぶち破った。とりわけ当時、子どもたちの感覚を射抜いたのは、3部で構成される音頭(四丁目、三丁目、一丁目)のラストにあたる〈東村山一丁目〉での志村さんの変態的な暴発だった。

志村けんの76年のシングル“志村けんの全員集合 東村山音頭”

おっとりと音頭然とした三丁目までと打って変わって、合唱団の衣装を脱ぎ捨てて、変態的な衣装(タイトなラメスーツや白鳥を股間につけたもの)で、反復する強烈なファンク・ビートをバックに、志村さんは声を反転させてシャウトした。〈いっちょめ、いっちょめ〉とあられもない姿で連呼して親に叱られたという体験は、おそらく当時の男の子のデフォルトなはずだ。

いま思い返しても、あれはラップだったし、ダンスだったし、プリンスだった(もちろんプリンスはデビューすらしてない)。

その後のドリフ=志村路線のヒット・コントだった〈早口ことば〉がシュガーヒル・ギャングからアイデアを思いついたもので、バック・トラックが“Don’t Knock My Love”(ウィルソン・ピケット)だったことや、〈ヒゲダンス〉が“Do Me”(テディ・ペンダーグラス)だったこと、そのチョイスが志村さんだったことは、いまではもちろんよーく知られている。後年のソロ・ギャグである〈ヘンなおじさん〉が喜納昌吉&チャンプルーズの“ハイサイおじさん”を下敷きにしていたとか、「志村けんのバカ殿様」にラッツ&スターの田代まさしや桑野信義を抜擢したこともそう。1980年前後、あの多忙な時期に雑誌「JAM」にスティーヴィー・ワンダーやダニー・ハサウェイなどのブラック・ミュージックのアルバム・レビューを寄稿(しかも冷静な名文)していたという事実もそう。

ザ・ドリフターズの81年のシングル“ドリフの早口ことば”

ウィルソン・ピケットの72年作『Don’t Knock My Love』収録曲“Don’t Knock My Love, Pt. 1”

テディ・ペンダーグラスの79年作『Teddy』収録曲“Do Me”

喜納昌吉&チャンプルーズの77年作『喜納昌吉&チャンプルーズ』収録曲“ハイサイおじさん”

とはいえ、当時小学生が大半だったドリフのファンはそんな背景はまったく知る由もなかったし、志村さんがそのことを強くアピールすることはいっさいなかった。ただただぼくらは、志村さんがドリフに持ち込んだリズムとソウルとダンスを、笑いを通じて毎週ひたすら浴びていただけだ。

おそらく、70年代後半に起きたサタデー・志村・フィーヴァーがなければ、ドリフの人気は「オレたちひょうきん族」の登場(81年)を待つまでもなく、もっと早くにシュリンクしていただろう。志村以前のドリフのエースはいうまでもなく加藤茶であり、いわゆるバンマスがいかりや長介。70年代前半の加藤さんの音楽的なヒット・ギャグといえば、エキゾチックなナンバー“タブー”に乗せて、ピンクの照明を浴びながらストリップ劇場の世界に視聴者を誘う〈ちょっとだけよ〉を思い出す。“タブー”は必ずしもストリップ界の定番じゃなかったかもしれないが、ドリフを通じて不可分な曲と認識されてしまった。エンディングの“ドリフのビバノン音頭”(デューク・エイセスが歌った“いい湯だな”の改作)にしても、リズムは当時としても古い時代のズンドコ・グルーヴだった(めちゃめちゃ愛されてはいたけど)。

ザ・ドリフターズの73年のシングル“チョットだけヨ!全員集合”

ペレス・プラード&ヒズ・オーケストラの55年作『Latin Satin』収録曲“Tabu”

ザ・ドリフターズの73年のシングル“ドリフのビバノン音頭”

志村けんは、そのズンドコをファンクに変えた。志村さんが〈全員集合〉に持ち込んだのは、70年代をリアルタイムで生きる青年がまとっていたファンキー・ソウルだったし、ダンスのアクションだった。“東村山一丁目”でのディスコ的な振り付けから出発して、80年代を迎えようとしていた〈ヒゲダンス〉では、より自由に踊れるムードを醸し出した。大人の社交場である〈クラブ〉ではなく、現代的なイントネーションの〈クラブ〉にもつながる空気感といってもいいだろう。子どもたちはそんな場所は知らなかったけど、それが新しいものかどうかはすぐに察知する。知らず知らずのうちに時代遅れになってしまいそうだったドリフを結果的に救ったのは、間違いなく志村けんだった。

他のメンバーより年下(1950年生まれ)であった志村さんは、ドリフ唯一の第二次世界大戦後の生まれでもある。いわゆる第一次ベビーブーマー、団塊の世代の最後尾であり、ポップ・カルチャー史的にいうと、1950〜1960年代に現れる〈大人〉にも〈少年〉にも属さず、既成の概念や社会に対して反抗的な感性を持つ〈青年〉が登場した時代の申し子でもあった。そういう意味で思い返せば、ドリフに加入した直後の志村けんには不思議な違和感は確かにあった。それまでのドリフは、子どもであるぼくの感覚でみれば明らかに〈大人〉もしくは〈おかしなキャラクター〉の集まりだった。すでに完成された域にある芸人たちや歌手たちが集う舞台に、何かのキャラクターでもなく、おもしろいこともできない〈未完成〉な青年が、画面にいきなり現れたという印象だった。あの〈何者でもない〉志村さんの2年間を目撃できていたのも、いまとなっては重要なことかもしれない。

そういえば、ドリフターズが前座で出演したビートルズの日本武道館公演(66年)を、志村さんは観客として観た側だった(ドリフに弟子入り志願をするのはその2年後)。それも象徴的な出来事だと思う。

他のメンバーが人生のなりゆきのなかで〈コミック・バンドのバンドマン〉に誘われて職業としてやっていた面もあったドリフターズ(それもまた味わいのある人生だ)に、志村さんは望んで参加した。言い換えればそれは、ネタとして踊るのではなく、いつか自分で踊ることを選んだ出発点でもあった。

志村さんのおかげで、よく笑ったし、よく踊ったな。書きながら思い出した。小学生の運動会で、上級生全員の鼓笛隊が行われたんだけど、最後はグラウンドの真ん中で全員がつけヒゲをして〈ヒゲダンス〉で踊った(そして何事もなかったように鼓笛隊に戻って退場した)。

志村さんは、とっくに僕らを〈うち〉で踊らせまくっていたし、いまもずっと〈うち〉で踊っているのだった。

以下は余談で、ぼくが志村けんともっとも接近した日の話。

去年(2019年)の暮れ、縁あって高木ブーさんの取材をすることになった。取材場所は、ドリフターズのメンバーが所属するイザワオフィスの一室。ブーさんも着席し、取材が始まろうというタイミングで事務所の方が部屋に見えた。用向きはもちろんブーさんへのごあいさつなのだが、ちょうど隣の部屋で志村さんが打ち合わせをしているのだという。

〈え!〉と声に出てしまいそうになり、心のなかが波打った。たったいま、志村けんが隣の部屋に? もしやブーさんに会いに、あのドアを開けて部屋に入ってきやしないか。ドキドキ。

その日、結局、志村さんは部屋には現れなかった。

よく考えてみれば、ドリフターズの最年少メンバーだった志村さんが最年長の大先輩であるブーさんの取材を邪魔しにくるような態度をとるわけがない。そういうトラディショナルな芸能の節度も、志村さんの心身にはしっかり刻まれているものだろうと思った。もうひとつ言えば、〈ばかばかしいことをする〉ということと〈人をばかにする〉ということは永遠に違う、と志村さんには教えてもらった。

80代半ばを超えてもブーさんの記憶力や語り口は見事なものだった。僕らも志村さんのことはすぐに忘れて、ゆったりとしたブーさんの話術に魅了されていた。

取材の流れで、バンドとしてのドリフの話になった。ブーさんが語ったのはこんなこと。

「志村が加入してからもバンドとしてやろうとした時期があったよ。荒井はキーボードだから、音の隙間を埋めてくれたんだけど、志村はギターしか弾けなかったからうまくいかなかったな……」(筆者要約)。

いかりやさんの自伝「だめだこりゃ いかりや長介自伝」(2001年)にも、おなじようなエピソードが書いてあった記憶がある。そのとき、志村さんはどんなカッティングを弾いていたのか、想像してみたくなる。

でも、バンドマンにならなかったおかげで、ぼくらは志村さんのギャグを通じて音楽を教わった。だから、だめだこりゃ、じゃなくて、だいじょうぶだぁ。