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ぼくは1968年生まれで、志村さんの前任だった荒井注在籍時代(64〜74年)の「8時だョ!全員集合」のザ・ドリフターズについてはギリギリ覚えている世代。〈This is a pen!〉とか〈なんだバカヤロウ〉が荒井さんのギャグだったよね。不機嫌でオフビート。肉体を使って笑わせるイメージのあったドリフにあって、荒井さんの〈動かなさ〉〈大人っぽさ〉は子ども心に印象に残っている。

志村けんが7年に及んだ付き人生活を経てドリフの新メンバーとして紹介されたのは、奇しくも訃報が流れた日とおなじ1974年3月30日だったという。

新メンバーになった志村けんの印象はしばらくの間、ほとんどなにもない。突如舞台に現れては奇声を上げて走り回るすわ親治(もうひとりの付き人だった)のほうが、はるかに強烈なイメージだった。76年に訪れる“東村山音頭”でのブレイクまで、テレビの画面で志村けんに注目する人はいなかったはず。

やがて、志村けんはそのモラトリアム的な殻を、実家のある東京都東村山市を舞台にした音頭“東村山音頭”を武器にして、一気にぶち破った。とりわけ当時、子どもたちの感覚を射抜いたのは、3部で構成される音頭(四丁目、三丁目、一丁目)のラストにあたる〈東村山一丁目〉での志村さんの変態的な暴発だった。

志村けんの76年のシングル“志村けんの全員集合 東村山音頭”

おっとりと音頭然とした三丁目までと打って変わって、合唱団の衣装を脱ぎ捨てて、変態的な衣装(タイトなラメスーツや白鳥を股間につけたもの)で、反復する強烈なファンク・ビートをバックに、志村さんは声を反転させてシャウトした。〈いっちょめ、いっちょめ〉とあられもない姿で連呼して親に叱られたという体験は、おそらく当時の男の子のデフォルトなはずだ。

いま思い返しても、あれはラップだったし、ダンスだったし、プリンスだった(もちろんプリンスはデビューすらしてない)。