COLUMN

映画「その手に触れるまで」イスラム急進主義に感化される13歳を通して、人間の自由意志を思索したダルデンヌ兄弟作

©Les Films Du Fleuve – Archipel 35 – France 2 Cinéma – Proximus – RTBF

人間の〈行動〉とは何か?
そこに〈自由」はあるのか?

 人は自らの自由意志で物事を判断し、行動に移す、と僕らは漠然と信じている。そして、あり余る選択肢からの自らの意志に基づく選択こそ、僕らが自由であることの証しなのだ……と。

 だけど、本当にそうなのか? ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌの映画は、有無を言わせぬ〈強制力〉で僕らにそんな問いを突きつける。僕らの〈行動(action)〉は、自分の意志や判断(内部)の結果ではなく、むしろ何らかの外部の力による強制に基づくのではないか。自らの意志で動くのではなく、いつも何らかの力によって動かされる、それが人の〈行動〉の原理だとすれば……。だから彼らの映画は、ハリウッド的な娯楽映画と異なる次元での〈行動の映画(アクション映画)〉であり、登場人物の予測不可能な──映画作家の意志も逸脱するかのような──〈行動」が、手に汗握るサスペンスへと僕らを導くのだ。

 ベルギーで暮らす13歳の少年アメッドは、映画が始まった時点ですでに異様な切迫感に苛まれ、次から次へと慌ただしく〈行動〉を強いられる。この生き急ぐかのような切迫感は何に由来するのか? とりあえずの回答はすぐに明らかになる。イスラム急進主義の強い影響下にあるアメッドは、彼なりの〈聖戦〉の遂行を急務と見なすのだ。 ダルデンヌ兄弟による説明を排するストイックな演出が、映画ならではのさまざまな認識を提起する。たとえば、少年はそれまで固い絆で結ばれてきたはずの女性教師に反発し逃亡するが、他方でコーランの暗記などの別種の学習には熱心に取り組む。思考が真逆に転じてもなお、彼の〈行動〉は〈学習〉という共通の括りを放棄しないのだ。あるいは、つい1か月前まで夢中だったゲームが宗教指導者のネット上の映像への崇拝に入れ替わる。鏡を前に身を清め、衣服を整えてからの祈りにしても、思春期ならではの外見へのこだわりと無縁とは思えない。思春期の少年は他人の目に自分がどう映るかが気になり(自意識過剰になり)、不純なものや汚れたものに嫌悪を催す潔癖症になりがちだ。そんな意味で、アメッドの切迫感に満ちた〈行動〉は、(イスラム急進主義に感化された)特異な例であるだけでなく、思春期の少年が普遍的に示す〈純粋さ〉に基づくものでもある。

©Les Films Du Fleuve – Archipel 35 – France 2 Cinéma – Proximus – RTBF

©Les Films Du Fleuve – Archipel 35 – France 2 Cinéma – Proximus – RTBF

 純粋な少年の目を曇らせ、洗脳する過激思想への断罪や批判が主眼の映画ではない。明らかに何らかの外部の(強制)力によって急き立てられ、動かされながら、それでもそれが自分の意志に基づくものと信じるアメッドの〈行動〉を通し、僕ら自身の〈行動〉や〈自由〉に根源的な問いかけがなされる。そして愛だけが、汚れ(接触)を極端に嫌う少年をそれでも触覚的な衝動へと誘うだろう。母親や教師は彼を抱きしめようとし、淡い恋仲となった少女からは当然、接触を求められる。アメッドはいつも神の眼(視覚)を意識し、神の耳(聴覚)に対して繰り返し祈りを捧げる。そんな視聴覚的世界への没入に対し、触覚はいかなる対抗軸を提示し得るのか? 他ならぬ視聴覚的表象である映画において遂行される、そんな果敢な挑戦に、僕らは没入せずにいられなくなる。

 


CINEMA INFORMATION

「その手に触れるまで」
監督・脚本:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
出演:イディル・ベン・アディ/オリヴィエ・ボノー/ミリエム・アケディウ/ヴィクトリア・ブルック/クレール・ボドソン/オスマン・ムーメン
エンディング曲:フランツ・シューベルト「ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調 D.960
第二楽章 Andante sostenuto」(演奏:アルフレッド・ブレンデル)
配給:ビターズ・エンド(2019年 ベルギー=フランス 84 分)
◎近日公開、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー
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