人間の〈行動〉とは何か?
そこに〈自由〉はあるのか?
人は自らの自由意志で物事を判断し、行動に移す、と僕らは漠然と信じている。そして、あり余る選択肢からの自らの意志に基づく選択こそ、僕らが自由であることの証しなのだ……と。
だけど、本当にそうなのか? ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌの映画は、有無を言わせぬ〈強制力〉で僕らにそんな問いを突きつける。僕らの〈行動(action)〉は、自分の意志や判断(内部)の結果ではなく、むしろ何らかの外部の力による強制に基づくのではないか。自らの意志で動くのではなく、いつも何らかの力によって動かされる、それが人の〈行動〉の原理だとすれば……。だから彼らの映画は、ハリウッド的な娯楽映画と異なる次元での〈行動の映画(アクション映画)〉であり、登場人物の予測不可能な──映画作家の意志も逸脱するかのような──〈行動〉が、手に汗握るサスペンスへと僕らを導くのだ。
ベルギーで暮らす13歳の少年アメッドは、映画が始まった時点ですでに異様な切迫感に苛まれ、次から次へと慌ただしく〈行動〉を強いられる。この生き急ぐかのような切迫感は何に由来するのか? とりあえずの回答はすぐに明らかになる。イスラム急進主義の強い影響下にあるアメッドは、彼なりの〈聖戦〉の遂行を急務と見なすのだ。 ダルデンヌ兄弟による説明を排するストイックな演出が、映画ならではのさまざまな認識を提起する。たとえば、少年はそれまで固い絆で結ばれてきたはずの女性教師に反発し逃亡するが、他方でコーランの暗記などの別種の学習には熱心に取り組む。思考が真逆に転じてもなお、彼の〈行動〉は〈学習〉という共通の括りを放棄しないのだ。あるいは、つい1か月前まで夢中だったゲームが宗教指導者のネット上の映像への崇拝に入れ替わる。鏡を前に身を清め、衣服を整えてからの祈りにしても、思春期ならではの外見へのこだわりと無縁とは思えない。思春期の少年は他人の目に自分がどう映るかが気になり(自意識過剰になり)、不純なものや汚れたものに嫌悪を催す潔癖症になりがちだ。そんな意味で、アメッドの切迫感に満ちた〈行動〉は、(イスラム急進主義に感化された)特異な例であるだけでなく、思春期の少年が普遍的に示す〈純粋さ〉に基づくものでもある。