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キッチンの秘密の扉の先にある音楽、すなわち〈希望〉
by 渡邊未帆

朝日美穂のデビュー・アルバム『ONION』(98年)を繰り返し聴いていたのは高校を卒業して上京したばかりの頃だった。激しい孤独や色恋沙汰の乱気流に振り落とされそうになりながらも、あの頃はもっと遠くへ、もっと深くへ、行けると思っていた。世界の果てから、絶望のどん底へも。あれ、今、そこへはどうやって行くんだっけ……。ふと、思考回路の扉を開く鍵を見失ってしまう。

SNSでは〈救いようのない話〉が、見えざる手によってサラリと〈いい話〉にすり替えられて、次々と流れていく。本当はあの頃よりも、私たちはずっと未来なんか描けない、絶望に足を踏み入れているはずなのに。〈おとなになる〉ということは、抉られるような気持ちを封じ込めること、煮え切らない思いに声をあげることをやめて、そんなことはまるでなかったことかのように颯爽と振る舞うことだ。そうこうしているうちに、自分が受けた傷の深さも、相手に与えたパンチの強さも忘れてしまうのだ。何よりも私が切なく、恐ろしく思うのは、その〈忘却〉である。

あれから22年経って、朝日美穂はもしかしたらもう孤独や恋なんか歌わないかもしれない。私はと言えば、恥ずかしながら、このジャンルの音楽をほとんど聴かなくなってしまった。彼女は、洗濯機が回り終わるのとパンが焼けるのとの合間に、自分と自分の大切なものの日常を守りながら、歌う。7年ぶりの新作『島が見えたよ』には、彼女の感情生活の報告が詰まっている。

やれやれ「君はスーパーでネギを買って、男のパンツを洗うためにパティ・スミスを聴いてきたのか?」(by阿木譲)というセリフは、もはや前世紀に死滅したマッチョイズムである。自宅のキッチンにいながらにして、あたりまえの野心を持って事物の変化を掴み取り、一瞬のうちに、秘密の思考回路へトリップする扉を見つけることは、可能なのだ! そのトリップを可能にするのは音楽だ。音楽しかない。このアルバム一曲一曲の断層からは、異世界のポップ・ミュージックの反響が聴こえる。

さて、しかしながら私たちは今、遠くへ旅することも、人と会うことも、大きな夢を実現させることも、音楽をすることも〈不要不急〉だと思わされている。全人類が背負っている困難である。その困難の隙間から手繰り寄せられた言葉を、彼女は、これからも困難は困難のままに、癒えない傷は癒えないままに、正直に、でも遊び心を持って、歌うだろう。

そして、もしこの歌の先に何か見えたとすれば、それを〈希望〉と呼んでもいいのではなかろうか。たとえそれが、すぐ近くにあったとしても。今、聴きたかったのはそういう歌だ。同時代に生まれた〈ポップソング〉と再び共振した奇跡を祝いたい。

『島が見えたよ』収録曲“旅するバルーン”

 


INFORMATION
朝日美穂『島が見えたよ』リリース記念 生配信ライブ@下北沢 Com.Cafe 音倉
2020年8月1日(土)
開始:22:00
出演:朝日美穂(ヴォーカル/キーボード)/楠均(ドラムス)/千ヶ崎学(ベース)/高橋健太郎(ギター)
ゲスト:アンドウケンジロウ(クラリネット)
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