コラム

忌野清志郎『COMPILED EPLP ~ALL TIME SINGLE COLLECTION~』地上を去った〈ヤバい身体〉、おさまる気配すらない躍動

©ユニバーサル ミュージック

こんな時に君がいないなんて……。

 私のRC初体験は『MARVY』ツアー最終日にあたる1988年6月21日。その日は水曜で会場は鹿児島市民文化会館だったはず。私は当時、生まれ故郷のシマをはなれ本土の学校にかよいはじめた細面の高校生で、昭和は終わりかけとはいえ、前時代的封建制の権化たる男子寮の諸先輩方の目をぬすんでひとり出かけたせいで、演奏中も終始ウワの空で正直中身はあまりおぼえていない。それなのになぜ日づけだけはっきりしているかというと、数日後に発売予定のシングル“ラブ・ミー・テンダー”がもし出なかったらどっかから圧力がかかったと思ってくれいとMCで清志郎が吐き捨てたたことばのとおり、翌日の朝日の、たしか経済面の片隅にあの有名な〈すばらしすぎて発売できません〉広告をみつけたから。とはいえそれが具体的になにを意味し社会のどの部分を表象するのか、高一の私はぼんやりと想像するばかり。ただこの世のなかにはヌエのようなものがいてよくないことをたくらんでいる、そうは思いはするものの確たる像は結ばない。そのあり方そのものがヌエなのだと、おそまきながら気づいたのはレーベルをかえてリリースした『COVERS』と、次の年の暮れのタイマーズのアルバムのときだったか。高二になっていた私はこの衝撃と発見を友人らと語らいたかったが、バンドブームに集団感染した寮内で、陸続とあらわれる新人バンドにかまける友だちにはあまりかまってもらえなかった。

 このときRCには20年ちかいキャリアがあった。ロックが若者文化なら20年選手はベテランの部類であり、ぴんとこない同級生がいても仕方ない。だからといって文化祭のだしものみたいなロックではつまらない。快楽と刹那主義、反抗と頽廃、インディペンデントとDIY――、それらの上位(下位でもいいけど)概念としてのヤバさがなければロックたりえない。ここにいうヤバさとは表現の先鋭性と実存の過剰さを兼ねるもけっして閉じない志向性を意味する。煎じつめればポップということなのだが、お仕着せでも戦略でもなく、身体的にそのことを理解するバンドマンはいまも昔もそう多くはない。RCサクセションと忌野清志郎は数少ない例外であり、その実在としてのヤバさが花開いたのは管見のかぎりでは80年代ということになる。ただしここでいう80年代は1980年にはじまる10年期にはあたらない(なんだか官房長官時代の菅義偉みたいな節回しだが)。私たちはしばしば歴史を10年ごとに区切りことたれりとするが、90年代のはじまりが天皇が崩御しベルリンの壁が崩れた1989年であるように、80年代の起点はおそらくYMOが結成し吉祥寺マイナーが開店した78年あたりにくいこんでいる。この年はまた、1970年という政治の季節の黄昏時に、屈折や韜晦を裡に秘めつつうつむき加減に登場したRCサクセションが76年の代表作『シングル・マン』を境にホール級の会場を満杯にするロック・バンドに転換しはじめる年でもある。世の中はすでに、73年のオイルショックに水をさされたものの、それさえテコに高度経済成長期で蓄えた貯蓄と欲望を決壊したダムのごとく放出するかまえにはいっていた。すなわち消費社会の出来であり、そこでは60年代の対抗文化に特有の政治性や自意識は分裂的で遊戯的な身ぶりに置き換わり、思想より記号を、重さより速さを尊重する。文化が若者のものであるのはいつの世も同じだが、消費者の貪婪なニーズを満足させるのにプロフェッショナルの存在が欠かせなくなったのもこの時期だった。

 そのことは70年代末から80年代初頭の企業広告の隆盛も裏書きする。糸井重里がコピーを書き、浅葉克己がアートディレクションを担当し、ウディ・アレンが出演しCMの音楽は矢野顕子が(音響ハウスで)吹き込んだ西武百貨店の「おいしい生活」はじめ、この時期の広告は商品を紹介する従来の機能を離れ、クリエイティヴの実験の場と化していた。上にあげた西武の広告は1982年だが、西武、サントリーともに広告御三家と呼ばれた資生堂もこの年、印象的な広告を世に問うている。

 私はたったいま〈印象的〉ともうしあげたばかりだが、小学生のときあの映像をはじめて目にして、率直にいって、このひとたちはどっかおかしいのかもしれんと思った。あの映像とは資生堂の82年のキャンペーンソング“い・け・な・いルージュマジック”を演奏する忌野清志郎と坂本龍一の姿をさす。私はそのとき、グラムロックともテクノポップともつかない曲調にのせてケバケバしい衣裳に身をつつみ化粧をほどこした男ふたりとブラウン管ごしに対面した。はじめての動く清志郎だった(と思う)が、映像から受けた衝撃は家族団欒のお茶の間に不意にテレビからベッドシーンがながれてきたとき以上のタブーにふれた感触があった。むろんそれ以前にも、沢田研二はじめ、煽情的、倒錯的なイメージを自己演出に利用した例は枚挙にいとまはないが、テレビに映る清志郎の身体には大人(清志郎自身、この時点でじゅうぶんに大人なのだが)の用意した鋳型に居心地のわるさをおぼえ逸脱する野放図さがあった。毒々しいほどポップで不遜なまでにヤバく、そのヤバさがあったればこそ私はRCサクセションと清志郎の表現におりにふれてたちもどり自分の立ち位置を確認する。82年はそのはじまりで88年の6月22日に、いまにして思えば、私はそのことを確信した。そのわずか20年代後の2009年に忌野清志郎のヤバい身体は地上を去ったが、政治性もこみでいいたいことを自分のことばでいいつづけた清志郎の表現は2011年の東日本大震災における原発事故で、ややもすれば長いものにまかれたがる私たちを鼓舞し、デビューから半世紀となる今年、コロナ禍にあえぐ世界に抗うように回帰する。この世を不在にして10年あまり、しかしその躍動はおさまる気配すらない。

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