
2023年6月7日、RCサクセションの『Baby a Go Go Deluxe Edition』がリリースされた。初のアナログ盤とリマスターCD、ギミックジャケットや写真集などで構成された豪華盤で蘇る、90年発表のラストアルバム。メンバーの脱退や制作の難航、リリース後の活動休止などトピックの多い作品ではあるものの、サウンドの大きな変化や忌野清志郎と仲井戸麗市が歌ったことは語られる機会が少ない。
そこで、当時の東芝EMIの宣伝担当としてバンドと清志郎を間近で見ていた高橋Rock Me Babyに、タワーレコード新宿店の副店長・村越辰哉が話を聞いた。6月6日に放送されたbayfm「78 musi-curate タワレコゾーン」のトークを、未放送分を含めて完全版でお届けする(なお、トークの模様は忌野清志郎ファンクラブの会報誌「どんちゃん画報」にも掲載されているので、そちらもぜひチェックしてほしい)。

デビュー20周年、上昇気流のバンドと脱退劇
――僕がRCサクセションのアルバムをリアルタイムで初めて聴いたのが『Baby a Go Go』でした。当時は違和感なく、素敵なアルバムとして受け取ったのですが、RCの歴史を知った今聴くと、異色作ですよね。どうしてここに着地したのか、お伺いしたいと思います。
「RCサクセションは、90年がデビュー20周年だったんです。なので、当時の東芝EMIは、1~12月に毎月雑誌の表紙を飾ることを背骨に盛り上げていきたいと考えていました。『COVERS』(88年)が弾圧によって発売中止になったことがニュースになってヒットし、清志郎さんはTHE TIMERSもヒットして、新しい上昇気流を描いている時でしたね。
さらに、当時スターだったプリンセス プリンセスやユニコーン、BOØWYの氷室京介さん、布袋寅泰さんも、RCからの影響を公言してくれていた。チルドレンが活躍し、頂点にいる日本のロック界で初の偉大なバンドということで〈THE GREAT RC SUCCESSION〉というコピーが使われる存在になっていたんです。
80年の『RHAPSODY』から始まった、そんな5人のバンドをお祝いして売っていこうとしていたのですが、4月にG2が脱退し、4人になってしまいました」
――なるほど。
「90年は、新作の発売日を頂点にプロモートする予定だったんです。『COVERS』が出せなくなって揉め事になり、THE TIMERSで色んな出来事があって、東芝EMIは一般リスナーから敵対視されることもあったのに、90年は〈全面的に応援します! 宣伝費もいくらでも出します!〉という感じだったので不思議でしたね。
90年は、チャボさん(仲井戸麗市)がソロアルバム『絵』をリリースして、新井田(耕造)さんとリンコさん(小林和生)、『Baby a Go Go』のプロデューサーで、同作をあの形で作るきっかけになった春日博文さんと4人でツアーを回っていました。清志郎さんは2月に、イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズのライブにゲストで出ています。
4月には〈ロックの生まれた日〉というイベントがありましたが、このイベントは元々タイトルが〈電気のいらない日〉だったんです」
――へー!
「近藤(雅信/当時の東芝EMIの宣伝担当)さんの発案で、東芝のアーティストが電気楽器を使わないユニットを作る、という。例えば、ちわきまゆみさんと伊藤銀次さんとブラボー小松さんが一緒にやったり、山口冨士夫さんとTHE PRIVATESの延原達治さんがやったり。
イベントのトリは清志郎さんと坂本冬美さんと三宅伸治さんで、〈SMI〉として出演したんです。後にHISでやる“逢いたくて 逢いたくて”とか“パープル・ヘイズ音頭”とかをやりました。ちなみに、〈SMI〉というのは坂本冬美さんの〈S〉、三宅伸治さんの〈M〉、忌野清志郎の〈I〉で、EMIのパロディなんです。そのイベントは大阪野音(大阪城音楽堂)と東京の日比谷野音(日比谷公園大音楽堂)で行われたのですが即日完売で、すごく盛り上がったんです。
そのようにメンバーはそれぞれアザーワークで活動していましたが、RCのレコーディングもだんだん始まっていました。(『Baby a Go Go』に収録されている)“あふれる熱い涙”は、前年の日比谷野音公演でもやっています。なので、あの曲を最初に録って、ラフミックスを元にプロモーションビデオを作ろう、という話になりました」

ゲリラライブでやりたい放題
――『Baby a Go Go』のリリース日は9月27日ですが、当初から決まっていたんですか?
「いえ、当初は7月29日の横浜アリーナ公演に合わせてリリースして、フェスツアーをやり、9月1、2、8、9日に〈4 SUMMER NITES〉をやる予定でした。ところが、レコーディングが難航して、9月になってしまったんです」
――そうだったんですね。
「90年1月15日の成人の日に表参道や渋谷、新宿などでハイエースの屋根の上にカラオケ機材を乗せて、僕がメイクをして衣装を着て〈RC、20周年おめでとう! 成人のみんなもおめでとう!〉というフライヤーを撒いたんです。前年のTHE TIMERSからの流れもあって、若い子たちが〈わー!〉と盛り上がり、僕が“雨あがりの夜空に”を歌いました(笑)」
――高橋さんが歌ったんですか(笑)。
「その様子を、近藤さんが買ったばかりのビデオカメラで撮ったんです。それを清志郎さんに見せたら、〈俺もやりたい!〉と言い出して(笑)。
それと、音楽評論家の今井智子さんから〈名古屋のテレビ局で番組を始めるからコメントをください〉と頼まれて、ただコメントするだけじゃ面白くないからと、清志郎さんが有楽町でゲリラライブをしたんですよ。当時はメイクをしなければわからなかったので、帽子を被ってサングラスをして、よく履いていたウエスタンブーツでギターを持って。
それが、すごく面白かったんですね。お客さんがいっぱいいて用意された大きなステージではなく、衣装も着ずに自分を知らない人たちがいる場所でやったら、どれだけの人が足を止めて自分の歌を聴いてくれるだろうかと。ただ、みんな、途中からなんとなく〈清志郎かな?〉と気づき始めるんですけど(笑)。清志郎さんは、〈チャボにもやらせてあげたかったな。喜ぶと思うよ〉と終わった後に話していましたね。
予定調和じゃないところでやりたい、ウケなかったらすぐ引っ込んで、ウケたら何時間でもやっていい、という感じでした。その日も本当は1、2曲で終わるはずが、楽しかったみたいで30分くらいやったんです」
――なるほど。
「それをまたやりたい、“あふれる熱い涙”をやろうと。すごい緊張感でしたね。途中で警察に逮捕されたら事件になってしまうし、事務所の方たちも嫌がって反対していました。でも、本人がやりたいからとやることになって。
東芝のスタッフがガードに回って問題ないかと思っていたら、清志郎さんがそのガードを飛び越えちゃった(笑)。お店の中や、みんなが気づいて〈わー!〉となっているところに入って行っちゃったり(笑)。僕たちも初めてだったので、パニック寸前でした。見ていた人たちが清志郎さんに着いてきて行列が出来て、デモのパレードみたいになっちゃったんですよ。
渋谷でやった時は火曜日の夕方6時くらいだったので、(人の多さが)ピークのタイミングでした。その時も〈2、3曲でやめてください〉という話だったんですけど、30分くらいやっちゃった。人だかりになって、これ以上やると逮捕されるという時に走って逃げました」
――音楽雑誌で読んだ記憶があります。
「『ROCKIN’ON JAPAN』に載ったんです。そして、中曾根(純也)本部長が、誰かが逮捕された時のために待機していたんですね。後で聞いたら、〈清志郎さんは絶対逃がせ。逮捕させるとしたら高橋かな。同じような格好をしているから、お巡りさんが見たらわからないだろう〉と言っていました(笑)」
――前年のTHE TIMERSに続き、高橋さんはそういう役回りが多いですね(笑)。
「僕は普段からメイクをして、電飾を付けてプロモーションしていたんですよ。ゲリラライブ撮影の時は目立っちゃうのでさすがにしなかったんですけど、服は派手なものしか持っていなかったので、一番地味な服で行ったのですが派手だったという(笑)。近くにいる僕が清志郎さんっぽい服を着ているから、バレちゃうんです」

お前の歌を作ったよ
――『Baby a Go Go』で新井田さんが叩いているのは、“あふれる熱い涙”と“Hungry”。この2曲は、レコーディングの初期段階で録られたものと考えていいんですか?
「そうですね。“あふれる熱い涙”は初期段階で一番の軸でした」
――話が逸れますが、HISの“500マイル”のセッション音源が『sings soul ballads』(2011年)にボーナストラックとして入っています。同じ時期の録音ですか?
「同じです。清志郎さんがゲリラライブでやったんですよ。ただ、英語じゃなかったと思うのですが……。『COVERS』以降は新たに日本語詞を付けるのがスタンダードになっていたので、英語は珍しいですね」
――想定していたアルバムの方向性は、どんなものだったのでしょうか?
「清志郎さんから〈話したいことがあるんだけど、時間ないかな?〉と電話があって。珍しくキャピトル東急の1階にあるORIGAMIというレストランで、清志郎さんと当時の事務所の社長と近藤さんと僕で会いました。〈実はG2が辞めることになった。これから長野に行って話をしてくるけど、行く前に話しておきたかったんだ。アルバムのレコーディングはG2抜きでやろうと思っている〉と言うんです。
それで、〈どんなアルバムにしてほしい? 20周年だから、近藤と高橋の思いも聞かせてほしい〉と言われたんですよ。近藤さんは〈(ビートルズの)『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』みたいなアルバムがいい〉と言って、僕は〈さすがだな〉と思ったんですね。〈レコードはビートルズのように、ライブは(ローリング・)ストーンズのようにやろうぜ〉というのは、RCが5人になった時に清志郎さんとチャボさんがいつも話していたことだったので。
僕は、〈(ローリング・ストーンズの)『Sticky Fingers』みたいなアルバムがいい〉と言ったんです。G2が抜けて4人になったら、ギターバンドになる。“雨あがりの夜空に”や“ブン・ブン・ブン”のようなギターリフがあって清志郎さんのボーカルがガツンとのる曲が好きだったので。〈どうして?〉と清志郎さんに聞かれて、〈“Brown Sugar”のような次のRCを表す象徴的な曲が1曲目にあるアルバムがいい〉と話しました。〈RCがこの時代、今のタイミングにしかできないロック。これから10、20年、もっと先までバトンが渡されるアルバムにしてほしい〉と。
その話をメンバーにしたかはわかりませんが、その後、4人で、東芝のスタジオ・テラで一気に30〜40曲録ったと思います」
――そんなに!?
「はい。雑誌の表紙企画があったので、僕もしょっちゅうスタジオへ打ち合わせに行っていました。先輩でもあるディレクターの熊谷(陽)さんが〈自分は行けないから、どうせ行くなら(レコーディングに)立ち会って〉と頼むんです。それで、コントロールルームじゃなくブースの中で見せてくれて、自分一人のためにライブをやってくれているようで嬉しかったですね」
――最終的に残った曲はありましたか?
「“ヒロイン”や“I LIKE YOU”はやっていたんじゃないかな」
――後に『Baby #1』(2010年)になった88年のLAセッションですでに演奏されていた2曲ですね。
「世に出ていませんが、僕はLAセッションのテープがすごく好きで、ずっと聴いていましたが、2曲とも全然違う感じでした。『Baby #1』は後にダビングしているのでまったく違う感じなのですが、元のセッションは小原礼さんがプロデューサーで、すごくダイナミックなロックンロールなんです。
“I LIKE YOU”には、たしかスライドギターが入っていましたね。小原さんに聞いたら、全部オープンチューニングでやったと言っていました。清志郎さんも、〈自分がギターを弾こうとすると、小原が全部オープンチューニングにしちゃうんだ〉と言っていて(笑)」
――その段階では、『Sticky Fingers』のような雰囲気はあったんですか?
「“I LIKE YOU”は、リバプールサウンドの完成形に近かったです。“ヒロイン”は、(ローリング・ストーンズの)“Let It Bleed”のような大きなリズムでやる感じでした。
その時期、“忠実な犬(Doggy)”も作っていて、ゲリラライブのことが歌詞に入っているんです。〈お前の歌を作ったよ〉と清志郎さんに言われました(笑)。
当時、僕は夏でもブーツを履いて、長いタバコを吸っていたんです。女友達と映画に行った話も清志郎さんにしました。僕は毎日忙しかったので、映画に遅れちゃったんです。当然彼女だけ先に入って、僕はポップコーンを食べながらロビーで待っていた、それが心地悪くもなくてよかったという話をしたら、それが歌詞になったんです(笑)。
その時、清志郎さんが〈退屈というのは、本当は辛いんだよ。俺はアルバイトを一回だけやったことがあって、サンドイッチマンのバイトだったんだけど、すごく辛かった〉とも言っていて、それで〈サンドイッチマン〉という言葉もあるんです」
――渋谷を舞台にした歌詞ですよね。
「それと、(当時、東芝EMIの統括本部長だった)石坂敬一さんは洋楽出身で、当時の東芝は邦楽作品も洋楽のスタイルで展開した初の会社でした。制作は全部アーティストがやり、宣伝はA&Rの役目でレコード会社の顔としてアーティストと共にどうやって世に打ち出すかをプランニングし、実行していく、という。制作担当はアーティストが作るものの補助で、宣伝担当はアーティストのイメージを作って、それをメディアに売り込みに行って、実際にブッキングして大きくしていく。それと、アーティストや事務所に言えない取引もある(笑)。
そういうことを清志郎さんに話したことがあって、それで〈何を取り引きしたの?〉というラインがあるんです(笑)」
――なるほど(笑)!
「〈高橋はマスコミにガンガン売り込んでるから、アーティストをプッシュするって意味で、『プッシャー』だな〉と言うんです(笑)。それで、清志郎さんに〈こっちはこういう風にやろうとしたら、相手が『いや、ウチとしてはこういう風にしたい』と言ってくるので、こっちのイメージと向こうのイメージを合わせて新しい打ち出し方を作っていくんです〉という話をしたら、〈取引してるな〉と(笑)」

ヘンリー・ハーシュの録音のこだわりと周囲の苦労
――では、プロデューサーのヘンリー・ハーシュが登場するまでの流れを教えてください。
「プロデューサーは、春日さんにしようという話になりました。そして、ローディーの青山(昇一郎)さんという方がレニー・クラヴィッツのアルバム『Let Love Rule』(89年)を清志郎さんに聴かせたんですよ。
そうしたら清志郎さんが〈このエンジニアがいい〉と言うのでヘンリー・ハーシュにオファーしたのですが、一度断られたんです。でも、2回目に音源を送ったら〈やりたい〉と返事が来て、〈アシスタントのデイヴィッド・ドマニッシュ(ドマーニッチ)というコンビでやっているから、自分が持っているニュージャージーのスタジオでレコーディングしよう〉と提案が来て。
ただ、他のメンバーが行きたくないということになり、〈日本に来てくれますか?〉という話になったのですが、機材やスタジオの条件について要望が来たんです。そこで色んなスタジオを見にいき、芝浦のベイブリッジ・スタジオに決まりました。
機材と楽器のオーダーを見たら、60、70年代の機材ばかりで。デジタルレコーディングが急速に発展してアナログ機材がなくなっていった時期だったので、それをかき集めるのにスタッフが色んなところに電話し、借用書を書いて、機材屋ではない個人の方にも頼みました」
――そうだったんですね。
「それまで海外ではミックスダウンエンジニアが全盛で、東京で録ったらニューヨークなどでミックスして音を作るのが主流でした。が、ヘンリーとデイヴは自分たちで録って、ミックスもやるプロデューサースタイルだった。
それで、色んな注文をどんどん言ってくるんです。新井田さんが使っていたフルセットのものじゃなく、簡単なバスドラとスネアとタムとフロアタムがあって、シンバルが2枚くらいのシンプルなセットで叩いてくれとか。それで色々なことがあり、新井田さんが抜けてしまうんです」
――当時のインタビューでも語られていたことですね。
「清志郎さんはすでに86年の『ストーンズ・ジェネレーション』(鳥井賀句:編/宝島社)という本の巻頭のインタビューで、ミックスエンジニアを使う海外レコーディングに関する質問に対して〈海外でやるなら音録りの段階から大々的にやったほうがいい〉と言っています。
(忌野清志郎のソロアルバム)『RAZOR SHARP』(87年)ではロンドンに行って、レコーディングのプロセスをチャールズ・ハロウェルと最初から進められたんですけど、その前は例えばティム・パーマーがミックスダウンだけをするとか、そういう流れでした。
ただ、チャールズがその後、ロンドンからいなくなっちゃって。新たなエンジニアを探さなきゃいけないということで、ヘンリー・ハーシュに白羽の矢が立ったんです」
――なるほど。
「チャールズのすごいところは、ニューウェーブのエンジニアなので音をたくさん入れたがること。清志郎さんはあまり音を入れたがらないのですが、すごくいい作品に仕上がっている。
ロックンロールの音にネオアコ的なリバーブがかかった独自のサウンドで、世界中どこを探しても(チャールズ・ハロウェルがエンジニアだった)『MARVY』(88年)みたいなサウンドはないですね。普通のエンジニアはギターの音やバンドのグルーヴ感を中心に録ろうとしますが、彼はまったく違う観点からエンジニアリングしているので、ローリング・ストーンズもなしえなかった無国籍なサウンドになっている。
THE TIMERSは電気楽器を使わずアコースティックでパンクをやるという当時は考えられない発想だったのですが、チャールズはその演奏をあのリバーブで独自の音に仕上げているので、海外のリスナーが聴くと驚くんです。それくらい独創的で挑戦的な音でした。
だけど、チャールズはその後、ペイル・ファウンテンズのサードアルバムが暗礁に乗り上げてしまい、自信喪失してエンジニアを辞めたらしいんです。それがなかったら、『Baby a Go Go』もチャールズがやっていたかもしれない」

みんな、しびれを切らしてる。もう終わったんだよ
――新井田さんが脱退してから、制作はどう進んでいったんですか?
「春日さんがドラムをやることになって進んでいったんですけど、ヘンリーが口を出すので途中から彼がプロデューサーみたいになってきて。だんだん、それまでのRCのサウンドと違うものになってきた」
――その拒絶反応は、当時のインタビューで語られていましたよね。
「一度、チャボさんに〈“うぐいす”って、どういうことを歌ってるんですか? 『次の景色が見えたから、もう次に行っている』という内容のような気がするのですが〉と聞いたことがありました。そうしたらチャボさんが〈みんな、しびれを切らしてるんだよ。高橋、もう終わったんだよ〉と言ったんです。チャボさんは、レコーディング中もずっとサングラスかけていましたね。
“うぐいす”の歌詞は、〈神様のハイウェイ 雲が急に光ったんで/それで…〉の後がない。あの曲に、当時のチャボさんの気持ちが全部入っていると思います。
“うぐいす”のレコーディングで、最初はチャボさんのボーカルがシングルで、サビもコーラスが入る前だったので、ちょっと物足りないと思っていました。でも、翌々日にスタジオへ行ったらコーラスが入っていて、バチッと決まって、モノクロだった風景がカラーになって目の前に現れる感じでした」
――なるほど。
「清志郎さんとチャボさん、2人の声ってバッチリ合うんです。そんな2人が出会えたのは奇跡だと思います。どちらがコーラスとも言えないような感じで、2人が合わさって一つの旋律を描く。しびれを切らしている感じが、2人の声が合わさった時にすごく伝わってくるんです。本当にしびれを切らしているチャボさんと、どうにかそうじゃない方向に行きたい清志郎さんとで心中はまったく逆なんですけど、一つの旋律に乗せてそれぞれのアティテュードを放り込むとばっちりハマる。驚きました。
今まで色んなレコーディングやライブを見てきましたけど、RCに限らず、あの瞬間が一番ガーン!ときた瞬間でした。この曲が『Baby a Go Go』の中で一番好きという方もいて、感度の高い方々がキャッチする曲です」
――ヘンリー・ハーシュがアレンジや演奏に意見を言って、喧嘩になったことはあったんでしょうか?
「僕が行った時、ちょうどそういう場面になっていたことが多かったです。
RCのレコーディングは夜に始まって朝や昼に終わることが多かったんですけど、ヘンリーは朝9時に始めて17、18時に終えて帰るんですよ。飲みに行ったりもしないし、清志郎さんのサイクルとは逆。それに合わせていたのですが、清志郎さんがだんだん来なくなっちゃって(笑)。ヘンリーが帰った後に来て、ちょっとダビングしたりとか」
――春日さんと4人で、〈せーの〉で録ったわけではないんですか?
「それは見ていないですね。ベーシックは〈せーの〉で録って、あとはダビングだと思います。
ああいう音質なので、大きなワンボックスのスタジオで〈せーの〉でやっているイメージですが、よく聴くと、意外と見事なダビングアルバムなんです。宅録に近い感じで、ダビングは多かった。それゆえに、密室感はすごくあったと思います」
――クレジットを見ても、清志郎さんが演奏している楽器の数が多いですしね。
「レニー・クラヴィッツのアルバムを聴くとわかるのですが、ヘンリーはベース、デイヴがドラムで、2人はリズム隊でもあるんです。レニーも相当ダビングしていると思います」

俺一人になっても作るよ
――では、発売日が見えたタイミングは?
「レコード会社の方ならわかってくれると思うのですが、4〜9月の上半期の内に出さなければいけなかったんです(笑)。上半期の予算にRCの20周年アルバムが組み込まれていて、出るか出ないかで大きな影響があったので、〈とにかく9月中に出してください〉とお願いして。それで、9月の最終週の水曜が27日だったんです(笑)。シングル(“I LIKE YOU”)のリリースは4週前の水曜日(5日)。間に合うようにギリギリまでレコーディングして、急工程でした。
当時、納期はリリースの3か月前で、少なくとも60日前までに完成させないと間に合わなかったのですが、『Baby a Go Go』のレコーディングは7月もまだやっていたと思います」
――ハンドリングは誰がしていたんですか?
「本来は担当ディレクターですが、そんなことを言っていられる状況じゃなかった。当時、1,000~2,000万円がスタンダードだった制作費も4,000~5,000万円くらいかかっていて、とにかく進めないといけない状況だったと思います」
――タフな状況ですね……。
「本来、プロデューサーは、〈いつまでにアップしないといけない〉というのを計算に入れて制作するんです。だけど、ずっと続いていたレコーディングの中でメンバーが2人抜けて、エンジニアが思ったような感じではなくて……。
一度、こういう話があったんです。〈いつ終わるか、出来上がるかもわからないので中断しよう、やめよう〉と。関わっている人たちも疲労もしていたので。でも、清志郎さんだけは〈やめるわけにはいかない。みんながやめて俺一人になっても、ヘンリーたちと作るよ。近藤や高橋たちが20周年を盛り上げているのに、RCがアルバムを作らなかったら全部崩れちゃうから〉と言って、続行になったんです」
――へー!
「清志郎さんが楽器をいっぱい弾いているじゃないですか。〈全部、俺一人でも作るから〉となってから、楽器を色々とやるようになったんです。“空がまた暗くなる”でオルガンを弾いたり、ウォーターホーンを持ってきてその音を入れたり。
だから、すごい決意をもって腹を括ったというか。清志郎さんはRCの顔というトップスターでもあり、パーソナルオフィスの代表者でもあったわけです。アルバムを出さないことによるビジネス面のダメージは、わかっていらしたと思います。
いつも人のことをよく考えてくれていた方なので、レコード会社の状況も実はすごく考えてくれていたんだと思います。〈これを出さなかったら近藤も高橋も困るだろう〉と。困るなんてもんじゃないんですけどね(笑)。そういう責任感もあったと思います」

〈ボーイズ・イン・ザ・バンド〉なジャケット撮影
――なるほど。
「芸術性やアーティスト性、もしくは社会に対するレジスタンスが前面に出る方ですが、超一級のロックンロールビジネスマンでもあると思いますね。
RCが5人だった頃、新作のジャケットを『RHAPSODY』のパロディにしようと僕が提案した時も、喜んでくれたのは清志郎さんで、3人になった後もそれを覚えてくれていて、〈そのスタイルでやろうよ〉と言ってくれたんです(笑)。でも、3人だとあの並びにならないのでマネキンを入れてみたのですが、あまりいい並びにならなかった。その写真は、インナーに使われています。
ジャケットはおおくぼ(ひさこ/写真家)さんのアイデアで、チャボさんとリンコさんをちょっと後ろに寄せて3人で真ん中に集まるポーズを考えてくれたんです。それで、あのジャケットが出来上がったんですね。
3人ではしゃいでいる同じポーズも撮りました。そのフォトセッションの時は楽しかったですね。3人とも昔のRCに戻った感じで、すごくいい笑顔で、はしゃぎながら撮っていました。苦しかった1年だったので、楽しかった思い出ですね」
――その段階でアルバムは出来ていました?
「出来ています。でも、あまりいい関係性ではなくなっていた時期だったので」
――チャボさんも、そのフォトセッションの話はインタビューで何回かされていますね。
「『RHAPSODY NAKED』のインナーに、楽屋かどこかで曲順を決めている写真があるんです。『ライブ帝国』というTVKテレビの番組のDVDに横浜文化体育館の楽屋の風景が映っていて、それもそういう雰囲気なんですよ。まさに〈ボーイズ・イン・ザ・バンド〉です。5人の少年たちがバンドをやっていることは変わらないんだけど、いつしか有名になり、でも楽屋ではセレブリティやビジネスマンの集まりとは関係なく〈ボーイズ・イン・ザ・バンド〉なんですよね。
そんな雰囲気が満ち溢れていて、それがなんともかわいくて。強烈なアジテーションを歌ってもいるロックンロールバンドなのに、かわいい――それがRCの魅力で、その雰囲気がフォトセッションの時にはあって、すごく楽しかったですね」
カーテン1枚めくって出た瞬間にロックスター
――そして、アルバムが完成してリリースされた。
「完成したんですけど、その時点でもうかつてのRCではなくなってしまっていたんです。クレジットを見ればわかるのですが、“忠実な犬(Doggy)”のベースはヘンリー・ハーシュが弾いている。これは、リンコさんが弾いたベースをヘンリーが〈違うんじゃないか〉と差し替えちゃったんです。それで清志郎さんと春日さんも〈いいな〉とOKを出したのですが。
RCってストーンズに近いと思うのですが、バンド外のメンバーがレコーディングに参加していても不思議じゃなかったんです。ただ、この時はバンド内の緊張感がすごかった。うまくいっている仲がいい時であれば多少の精神的な軋みは回避できたかもしれませんが、一番緊張感が強い時だったので、もうバンドとして一つの人格は完全に失っていたと思います」
――アルバムを出した後、ライブはあったわけですよね?
「レコーディング中、野音でのライブはアルバムより20周年をプロモーションする方向に切り替わったんです。取材は、アルバムについて全員がコメントすることはできないとわかっていたので、清志郎さんだけが出て。
野音公演については清志郎さんに〈ちょっと選曲を手伝ってくれ〉と言われ、2人で考えました。〈20周年だからデビュー曲や3人時代の曲も入れよう〉というのは、清志郎さんのアイデアだったんです。僕は79〜90年の曲を入れた方がいいんじゃないかと言ったんですけど、新井田さんもG2もおらず、メンバーも異なるので違うことをやろうと。さらに、ホーン隊も金子マリさんもいなかった。『RHAPSODY NAKED Deluxe Edition』にNHK-FMでやっている79年の演奏が5人編成ですが、5人はそれ以来だと思います」
――アルバムのリリースは野音で告知されていますよね。
「しています。ただ、アルバムはとてもいい作品だったのですが、その後の活動からもわかるように歓迎されざる作品でした。だから、新作の曲はあまりやっていないんです。でも、すごくいい野音でしたね」
――ライブビデオ「ミラクル -20th Anniversary-」に収録されているのは、その一部ですよね。
「ええ。清志郎さんのアイデアで“やさしさ”とかをやったんです。〈初めてやった〉と言っていました。あと覚えているのは、“トランジスタ・ラジオ”を1曲目にやったこと。あれは僕のアイデアなんです。ただ、清志郎さんは〈この5人ではやりづらい。バチッとうまくハマんないんだよ〉と言っていました。
1日目が終わった後に楽屋に呼ばれて、〈“キモちE”に変えようと思ってるんだよ。グッと掴めない〉と言うんです。〈“キモちE”は掴みやすいんですか?〉と聞いたら、〈“キモちE”と“雨あがり(の夜空に)”はいつ、どんな状況でやっても掴めるから〉と。それまで僕は、 “キモちE”は速いパッセージでドライブするロックンロールだと感じていたんですけど、その時〈あっ、これはソウルナンバーだったんだ〉と気づきました」
――ジャンプナンバーですね。
「そう。オーティス(・レディング)がステージに出てくる時の“I Can’t Turn You Loose”みたいな感じで。清志郎さんの畳みかけるような歌詞で、〈これは最初にドスーンと出す、最も得意な勝ち札なんだなあ〉と」
――袖から「キモちE〜〜!」と言って登場しますよね。
「僕、ステージ脇にいたんです。小さい(息子の)竜平くんがいて、(妻の)石井(景子)さんがいて、清志郎さんはステージに出る前にあの衣装とメイクで竜平くんを持ち上げて笑わせて、竜平くんを石井さんに渡して、僕の方を見て〈じゃあ、行ってくるよ〉と言いました。カーテン1枚めくって向こうに出たら、その瞬間にロックスターでしたね。
1曲目が“キモちE”だと、出てすぐにバーンとジャンプできるんです。ジャンプした後にステージを2往復くらいするんですけど、そのステップがミック・ジャガーとオーティス・レディングをかけ合わせたもので、ロックンロールショーとソウルショーが同居していた。“キモちE”はジャンプしやすくてステップも踏みやすいんだなと納得しました」
本当に好きな人しかやっちゃいけないサウンド
――アルバムのセールスはどうだったんですか?
「大成功ですね。18万8,000枚でスタートして、20万枚を超えました。当時の業界誌は3つあって、『オリコン』は3位、『ミュージック・リサーチ』は2位、『ミュージック・ラボ』は1位でしたね。
チャート的にも大成功でしたが、新しいロックンロールを提示できたのがよかったと思います。当時の音楽はデジタルなものやニューウェーブの流れを汲んだ、言ってみれば海外のものを日本風に加工したコピーのようなものが多かったんです。日本のロックやポップスを形成するうえでそこを通らないと今の形にならなかったので、それが悪いことではなかったのですが。ファッションにしても何にしても全部がそういう時代で、フェイクの時代でもあったと思います。けど、『Baby a Go Go』は本格的な、もしくは日本のオリジナルのロックで、世界中どこに行っても通用する初めての作品だと思います」
――なるほど。
「『Baby a Go Go』のサウンドは、みんな怖くて手が出せない領域なんです。ガチャガチャした強いビートでやる方が気持ちいいし、日本の音楽家は特に音で埋めるのが好きだから、スカスカなものは不安になってしまう。
『ストーンズ・ジェネレーション』で〈ストーンズはどういう存在ですか?〉という問いに対して、清志郎さんが〈本当に好きな人しか乗っちゃいけない車ってあるよね。そういう感じなんだよね〉と言っています。その言葉を借りるなら、『Baby a Go Go』は〈本当に好きな人しかやっちゃいけないサウンド〉なんです。
デジタル全盛の新しいものが正義だったあの時代にやったのは、すごい勇気だと思いますね。日本の音楽を強力に押し進めた一枚だと思っています」
――決して派手なアルバムではないですが、繰り返し聴きたくなる名盤の風格がありますよね。
「地味なアルバムですよね。出た意味もすごく大きいのですが、RC史上一番売れたアルバムになった。僕にとっては、すべてのアーティストのアルバムの中で最も好きな作品です」
――難産ではあったけど、今も輝いている作品だと思います。
「清志郎さんは80年に〈レコードなんてチラシみたいなもんだよ〉と言っていましたし、ライブの印象が強いんですけど、ライブとの両輪でレコーディングアーティストとしてもすごく独創的で優れているんです。レニー・クラヴィッツも清志郎さんも、〈レコーディングっていうのはアーティストにとって一番大切なものなんだよ。ものを作ること、その現場はとてもシビアで、色んなことを吸収したり捨てたりしなきゃいけない。ライブはパーティーだよ。息抜きなんだよな〉というようなことを言ってました。
そういう作品性や精神性、クリエイティビティが最高な形で出たのが『Baby a Go Go』だと思います。1世紀単位で語られる作品で、200年後もこのレコードだけは残るような作品だと思いますよ。
ただ、このアルバムでバンドが崩れていった……。RCは出会った当時16歳だった僕の人生を決定したバンドであり、お客さんがほとんどいない状況から自力で、音楽だけで上がっていったバンドです。〈ロックは売れない〉〈日本のロックなんかない〉と言われていた国でロックをメジャーにして有名になって――それは考えられない話だったんですよ。そういうバンドがわずか1年で崩れていく様をスタッフとして見てきて、本当に辛かったですね。
今思うと、すごく色んなことを教えてくれたと思うんですけど。当時は苦しかったのですが、出来上がったものを聴いた時は〈すごくいいアルバムだな〉と本当に嬉しかったですね」
自分の生き方で世の中に斬り込まなきゃいけない
――温かい曲が収録されたポジティブな作品で、聴いているとハッピーになれますし、しんみり沁みる。シビアな背景や現実を忘れてさせてくれるアルバムだと思います。
「そうなんですよね。当時はアルバム自体のことをあまり押し出せなかったので、今回は背景だけじゃなく聴きどころなどを伝えたいですね。個人がイメージしたもの、頭の中でデザインしたものが形になった作品って、つまらないものがすごく多い。でも、最高のレコードって〈こんなものを作りたいなと思っていたのに、まったく違うものになった。けど、面白かったね〉という作品だと思います。それを体現している。
清志郎さんのソングライティングもよりシンプルになっていて、〈曲なんて1つか2つのメロディがあればいいんだよ〉とよく言っていましたが、それを見せてくれています。ロックンロールアルバムこそが最高のケミストリーだと実感させてくれた作品です」
――派手な曲はなくて驚くほどシンプルだけど、飽きがこない。
「あまり取り上げられない“Hungry”は、2つの視点から聴けるんです。一聴して〈世の中からはぐれた者〉の歌に思えるのですが、〈世の中に本気で勝負していかない奴ら、例えばライブハウスだけで幅を利かせて外で勝負しない人たちが集まってうだうだ言っているだけ〉という意味にもとれる」
――なるほど。
「世の中に迎合するのがいいとは思わないし、勝負しないのがいいとも思わない。自分のやり方、生き方で世の中に斬り込まなきゃいけない、ということを清志郎さんは体現していた。
それをメジャーのグラウンドでやったから『COVERS』は発売中止になった。限定されたマニアックなフィールドの人だったらああはならなかった。だけど、あの事件が中学生のロック好きな子などに届いて〈原子力、原子力発電所ってなんだろう?〉と初めて考えた。発言をする以上、リスクを負ってそういうところに立つんだと。
他の曲でも〈子供だましのモンキービジネス/まともな奴はひとりもいねえぜ〉(“ドカドカうるさいR&Rバンド”)と歌っていますが、そこには〈俺も含めてひとりもいないんだよ〉と自分も投影している。だから、僕たちの心にアタックすると思うんです。
世の中を拒否して勝負しない奴と勝負している者を嘲笑している奴が負けることよりかっこ悪いんだよ、ということを“Hungry”では歌っていると思います。この時期は清志郎さんと2人でいることも多かったので、そういう話をすると〈そうかもな〉と言ってくれたんですけど、2000年代は〈お前、考えすぎだよ。お前がガチャガチャ言うから、みんなそう思っちゃうんだよ〉と言っていました(笑)」
――(笑)。
「でも、きっとそうだと思います。あれほどのバンドを引っ張ってきて、90年にあれだけ色んなことがあって、会社やビジネス面でもたくさんのことがあった。もちろんスタッフやメンバーの協力もあったとはいえ、それらの局面をよく1人で全部乗り切ってきたと。大きなバンドじゃなければ、清志郎さんがスーパースターじゃなければ、そんなことは起こらなかったわけですし、乗り切り方ももっと楽だったはずなんですよね。だから、余計に響きました。
当時はインディーズが台頭し始めていて、〈高橋さんは東芝の社員で、たんまり金をもらっているじゃん。そんなのロックじゃないよ〉とか、散々言われたんです。清志郎さんは〈そういう奴こそロックじゃないんだよな〉とよく言ってくれました。〈金はないよりあった方がいい。金があることは別に悪いことじゃないからな〉と。
清志郎さんがすごい人なのは、メジャーのグラウンドにいて、あらゆる人の心を掴んじゃうような独自な立ち位置にいるからなんですよ。インディの人もオルタナティブな人も、〈フジロック〉に集まっている人から〈FNS歌謡祭〉を見ている人まで全員、忌野清志郎というイメージにバーンと繋がる。
いま聴いているロック少年少女たちは、それを目指してほしいと思います。自分の音楽とやり方で儲けたり成功したりすることは、決して悪いことじゃない。だけど、誰かにぶらさがったり、誰かの上に乗っかったりするのは一番かっこ悪い。自分の手で成功を掴んで、自分で自分を楽しくすることを清志郎さんは教えてくれたんですよ。
アルバムの最後の曲“楽(LARK)”で〈ハゲシイこの職業/わずかでも多く/遠くを見ていたい〉と歌っていますが、見ている場所がその辺の奴らとは違うんです」
――終わらないRCサクセション・忌野清志郎デビュー50周年記念企画はまだ続くんですか?
「2024年まで続きます(笑)。2025年になったら55周年ですから、さらに!」
――ゴーゴー! 期待しています。

RELEASE INFORMATION
リリース日:2023年6月7日
仕様:ゲイトフォールドジャケット+左右開きスリーブケース+14面ギミックジャケットCDケース
価格:14,850円(税込)
TRACKLIST
Disc 1, 2(180g重量盤2LP):『Baby a Go Go』
*ロンドンのアビー・ロード・スタジオにてハーフスピードカッティング
A面
1. I LIKE YOU
2. ヒロイン
3. あふれる熱い涙
4. June Bride
B面
1. うぐいす
2. Rock’n Roll Showはもう終わりだ
3. 冬の寒い夜
4. 空がまた暗くなる
C面
1. Hungry
2. 忠実な犬(Doggy)
3. 楽(LARK)
Disc 3(CD):『Baby a Go Go』リマスター
*当時プロモーションのために作成された変形14面イラストジャケットを復刻
1. I LIKE YOU
2. ヒロイン
3. あふれる熱い涙
4. June Bride
5. うぐいす
6. Rock’n Roll Showはもう終わりだ
7. 冬の寒い夜
8. 空がまた暗くなる
9. Hungry
10. 忠実な犬(Doggy)
11. 楽(LARK)
写真集:オリジナル限定盤CDに付属していたカラー24P写真集をLPサイズで復刻
ポストカード:当時の購入特典ポストカードを復刻


