ピアノの弾き語りから一転、本名名義での新作は、トリックやギミックを端々に仕込んだポップ・アルバムに。エレクトロニクスも重ねてフリーダムな感性を炸裂させる様は、彼の原点も彷彿とさせるもので──
今まで通りに戻っても大丈夫
HARCO(ハルコ)というアーティスト・ネームで活動していた青木慶則(あおきよしのり)が、これからは本名名義で作品を発表していく。しかも新たな自主レーベルからのリリースで、ファースト・アルバム『青木慶則』はピアノの弾き語り──。その報せを聞いたのは一昨年の暮れだった。当時のインタビューで青木は「しばらくは弾き語りのアルバムだけをリリースしていく」と語っていた。しかし新作『Flying Hospital』は、HARCOの初期で繰り広げた多重録音サウンドを今様にアップグレードしたような感触だ。
「それまで、歌とピアノのみでアルバムを作ることは、一生できないと思っていたんです。でもファーストでそれが実現できて、大きなコンプレックスが消えた。もう今まで通りに戻っても大丈夫だって安心できたんです。『青木慶則』(2018年)の頃はマネジメントが突然フリーになって、ひとりで何もかも動かなきゃならなくて。だから、弾き語りのような軽いフットワークで続けていくことが、自分の使命のように感じていました。そもそもHARCO時代の後半になるにつれて、シンガー・ソングライター然とした曲しか作れなくなっていたので、思い切って本名に変えたところもあって。でも、いざ以前の〈HARCO〉という枠が外れると、以前のようなエキセントリックな曲も作れるようになってきて。特にエレクトロニックな要素の強い『冬の大六角形』というEP(2019年)が成功したことが大きくて、それを土台にフル・アルバムを作ろうと。なので新作を気に入ってくれた人は、EPもぜひ聴いてほしいです」。
その発言通り、新作では初期HARCOのようなトリックやギミックが端々から感じられ、シンプル極まりない『青木慶則』から一転、良い意味でもけれん味や衒いがプラスに作用していると言える。特に、エレクトロニカとフォークのあいだを行くような前半4曲は、何度聴いても新鮮な驚きや発見がある。制作にあたって参照したり触発された音楽は?と問うと、次々に固有名詞が飛び出してくる。いちリスナーとしての好奇心や貪欲さが、新作の輪郭を鮮やかに際立たせている印象だ。
「弾き語りアルバムの時は、割とアコースティックなものを聴いてました。でもその前後の数年はずっと、打ち込み色の濃いものばかりに触れていて。具体的にはオーストラリアのEDM寄りなコスモズ・ミッドナイトとか、チル系では女性シンガー・ソングライターのラプスリー。遊び倒すという意味ではボン・イヴェールとかサンダーキャットも好きですね。クレイロっていうアメリカの、シンプルなブレイクビーツに乗せて歌う女性も好き。つい最近だとイギリスのアーロ・パークスかな」。
後半はエレクトロ・スウィングの向こうを張ったような“秋を待たずに”、AORやシティー・ポップ風味の“Wonder Wonder”、アンビエントなトラックが心地良い“水のなかの手紙”など、モード設定を自由にチェンジ。「HARCOの時からの常套手段」だというヴォーカルの多重録音は、時にビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』のお株を奪うようだ。そのコーラスが秀でている4曲目の“Hazel Eyes”はサイケデリックな音像が耳を惹く。ただし、単純にたくさんの音楽をインプットすればいいというわけでもないことを、青木は塾知している。「意識しているのは、その時必要だと思っても、無闇に知識を吸収しすぎないこと。いくつになっても知らないことがあったほうが、新鮮な気持ちで創作できるので」というのが基本スタンスだそうだ。
逆に変わらないのは、誰の耳にもすぐに馴染むポップでキャッチーなメロディー。余計な圧や派手さこそないものの、メロウでナチュラルなヴォーカルラインは新作でも健在だ。〈スズキアルト〉のCMで流れた“世界でいちばん頑張ってる君に”がCD化されヒットし、〈NHK みんなのうた〉で親子を想定したデュエット曲“ウェイクアップ!パパ!”が流れるなど、青木が優れたシンガー、メロディーメイカーであることは実証されてきたが、本作はそこからさらに進化を遂げている。